まわる(1)

突然、夏がやってきたようだ。窓は大きく開け放たれていて、蝉の声が鳴り響いている。
私は読んでいた本に栞をはさんで、部屋の真ん中にごろんと大の字に寝転んだ。目を閉じて蝉時雨に耳をすませれば、まるで私が蝉になってしまったみたいだ。
たんたんたんと、誰かが階段を上がって来る音がする。おじいちゃんが工場から帰ってきたのかもしれない。
私はおじいちゃんと、風呂屋の二階を間借りして住んでいる。テレビと、タンスと、ちゃぶ台と、二人分の布団。五畳ほどの殺風景なこの部屋は、二人で暮らすにはあまりにも小さい。

私がこの家にやってきたのは去年の夏のことだった。
その年は最悪の年だった。
お父さんが働いていた会社が倒産して、そのうえ運悪く家が火事にあったのだ。私たち家族は悪魔に見初められてしまったとしか思えない。
突然無一文になり、途方に暮れたお父さんは私をおじいちゃんに預けて、お母さんと遠い街で住み込みの仕事をはじめることにした。
「すぐに迎えにくるからな」
お父さんは、そう言って私の頭に手を乗せた。
私はかしこい子供だから、にっこり笑って見せることができた。私はちゃんと知っていた。いつも私を叱りつけるあの恐いお父さんが、いまとっても悲しいこと。
もしも神様がいるなら、何度だって褒めて欲しいと思う。くちびるのはしっこがひくひくして今にも泣きそうだったけれど、それでも私は笑ったのだから。

隣の部屋から、チヨちゃんの甲高い声が聞こえている。チヨちゃんは隣の部屋に住んでいるスナックのホステスさんだ。今から出勤なのだろう。
チヨちゃんは妻子もちのお客さんと、お隣に二人で住んでいる。チヨちゃんの部屋とは襖を一枚隔ているだけなので、ふたりの会話はほとんど丸聞こえだ。たまに喧嘩もするけど、二人は概ね仲よくやっている。
チヨちゃんはは美人のちゃきちゃき者なので、お店ではえらく人気なのだそうだ。チヨちゃんの彼氏はそれが心配の種らしい。
チヨちゃんと彼氏はもうすぐ結婚する。彼の離婚がやっと成立するのだそうだ。
最近までおじいちゃんも私も、彼をただのヒモ男だと思っていたけれど、実のところ彼は街で一番大きな金物屋の旦那なのだそうだ。事情を隠してチヨちゃんの部屋に逃げ込み、離婚の機会を伺っていたのだ。だからチヨちゃんはいわゆる玉の輿というやつだ。
チヨちゃんの幸運を、私は心から祝福している。チヨちゃんは美しい。そして何よりも、風が吹き抜ける夏の海のように爽やかできっぷがいい。
チヨちゃんはたまに、私を駄菓子屋さんに連れて行ってくれる。私が慎み深くラムネを一個差し出すと、「なにいってんの、いっぱきこーとき、いっぱきこーとき」と両手いっぱいのラムネを買ってくれる。
チヨちゃんが大人の女性であるという点に置いて、私はチヨちゃんに憧れている。
真夜中、トイレに行こうと部屋を出ると、仕事帰りで華やいだ出で立ちのチヨちゃんに出会うことがある。「あら、ミーナ。眠れないのお?」
いつもと違う、色っぽい声を出すチヨちゃん。くるんと毛先が丸まっている。やがてチヨちゃんの部屋の襖の陰から大きくて太い手が伸びてきて、チヨちゃんの体は攫われていく。
そんなとき、私はなんだか焦ったくてたまらない気持ちになるのだ。
天井に向かって大きく手を伸ばしてみる。丸っこい指先が見える。どんどん伸びろ、私の指。どんどん伸びろ、私の手足。いつまでも鳴り止まない蝉時雨が、どこか遠い場所へと私を急き立てている。

私は、夏が好きだ。
おじいちゃんは自転車の荷台に私を乗せて、よく海に連れて行ってくれる。
おじいちゃんは家の中ではすててこ一丁なのに、外に出る時はスーツに着替える。そして必ずパナマ帽をかぶる。
びしっと紺のスーツ姿で、背筋をぴんと伸ばして、赤茶けて錆びた自転車をキコキコ運転するおじいちゃんを友達はからかうけど、私はちっとも恥ずかしいとは思わない。
「美奈、ちゃんと持っとけよ」そう言うおじいちゃんの背中を、私はしっかりとつかむ。

おじいちゃんはいわゆる「没落貴族」というやつだそうだ。
「わしが小さい頃はな、それはそれは大きなお屋敷に住んでいたんだぞ。」
いつかお父さんがそう言っていた。戦争のどさくさに紛れて事業を騙し取らても、おじいちゃんは文句のひとつも言わなかったそうだ。ただ黙って家族を連れて家を出て、長屋に引っ越してからは近くのお風呂屋さんで黙々と働きはじめた。
「あの人はね、生まれつき品のいい人なのよ。」
と、いうのはお母さんの言葉だ。
おじいちゃんとは正反対に、お父さんは負けず嫌いの性格になった。小さな頃に生活が激変したからだろう、お父さんはまるで戦士のようだった。ビジネスマンのお父さんはあまり家に帰ってこなくて寂しかったが、私はそんなお父さんを誇らしく思っていた。

私はおじいちゃんとご飯を食べるのが少し苦手だ。おじいちゃんは食事の仕方についてとてもうるさい。部屋の小さなちゃぶ台におじいちゃんと向かい合って座って、かしこまって夕食を食べる。かつておじいちゃんが暮らしていたお屋敷の晩餐はこんなふうに厳かな儀式のようだったのではないだろうか。なんとなく私はそう思っている。
お腹ぺこぺこで学校から帰って来て、さっそくご飯に飛びつこうものなら「美奈、お箸は三手で取りなさい」と、ぴしゃっとやられる。おじいちゃんは私の一挙手一投足を見逃さない。
はーい。できるだけ明るくそう言ってお箸を一度置き、私は改めて三手でお箸を取り直す。背筋を伸ばして、お椀を胸の位置に持ってくる。
おじいちゃんの刺すような視線をいつも感じて、正直なところ、食事の味はわからない。
でも、そうでなければ良いお家にお嫁に行けないとおじいちゃんが言うので、私は一生懸命おじいちゃんの言う通りにご飯を食べている。
大人になったらお金持ちと結婚して、その上私もばりばりと仕事をして、おじいちゃんとお父さんとお母さんに楽をさせてあげるのが私の夢だ。
心が大切なんて言う人が世の中にはいるけれど、私は思う。世の中はお金だ。お金さえあればこの寡黙で優雅なおじいちゃんはかつての暮らしを続けられた。私たち家族も離れ離れになることはなかった。
それにチヨちゃんは、私に両手いっぱいのラムネを買ってくれるではないか。

お父さんとお母さんがいなくなって、寂しくないと言えばそれは嘘になる。私にはおじいちゃんがいるし、チヨちゃんだっている。学校の同級生たちは、何かあればすぐにびーびー泣く。誰かが助けてくれると思っているのだろう、みんなまったくの甘ったれだ。私はけして泣かない、そう心に決めている。
それでもたまにお父さんが夢に出てきてぎゅうっと抱きしめられると、体から力が抜けて、なんだか自然と涙が出てしまう時がある。底抜けの安心感が胸の中を満たして、ああ何もかも夢だったんだ、お父さんもお母さんもどこにも行くわけがない、ああよかった、と思うのだ。
そういう夢を見た日の朝は、この世界が真っ暗やみに見えることがある。隣で眠るおじいちゃんの規則正しい寝息と、灰色の部屋が、私をゆっくりと現実に引き戻す。

あれは、私がおじいちゃんの部屋に来た次の日のことだ。おじいちゃんは私を海に連れて行ってくれた。あの日のことを私はずっと忘れないと思う。
海はすごい。砂浜に寝転んで波の音を聞いていると、私の体から世界が始まっているような気がしてくる。ぜんぶ、ぜんぶ、真っさらになったような気がしてくる。
側でおじいちゃんがブルーシートを広げて、お弁当の準備をしていた。お弁当にはきっと、大好物の卵焼きが入っているのだろう。いい匂いがここまでただよってくる。
澄み切った夏空を見つめていると、おじいちゃんと、お父さんと、お母さんと、チヨちゃんが、頭の中で手をつないでくるくるとまわり出す。風が体を吹き抜けていくのがわかった。
その時、私は稲妻に撃たれたように思った。
きっときっと、お金持ちになろう。お金持ちになって、もうこんなに悲しい思いを誰にもさせない。
湧き上がるようなその決意は体の隅々に染み渡り、ゆっくりと力が漲っていくのがわかった。
おじいちゃんが私の名前を呼んでいる。はーいと返事をして私は起き上がる。おじいちゃんが笑っているのが見える。
やがてそれは爆発しそうな焦燥感に変わり、走り出しそうなほど急速に私の体を支配してゆく。
そうだ、家に帰ったら勉強しよう。まだあいうえおだって読めないけれど、たくさん本を読もう。誰よりも美しく食事を取れるようになって、それからお茶もお花も、ああ、それから、みんなに私を気に入ってもらえるようにお話しだって上手にならなきゃいけない。
そうして、いつか私は全てを手に入れるんだ。私たちがかつて失ってしまった、全てを。
なんだか泣きそうだった。
真っ白な砂浜を舞台に、光が踊り狂っているのが見える。柔らかな頰に降り注ぐ透明な光の粒を、私はただいつまでも見つめていたのだった。


In A Notebook

夕暮れがいつの間にか終わっていた。まるで忘れ物みたいに、オレンジ色の雲が濃紺の空に浮かんでいる。
夜が始まろうとしていた。君と過ごす、たぶん最後の夜が。
ベットに腰掛けて、君は静かに空を見ていた。
年下の美しい男の子。私はずっと、この小さな横顔が愛おしくて仕方なかった。
「なにか飲み物を入れようか?」そう尋ねると、「いや、いい。それよりここにいて」と彼が静かに呟いた。

彼が突然、私に別れを告げてきたのは先週末のことだった。晴天の霹靂だった。あなたは末期ガンだと医者に告げられた患者のような衝撃だった。
確かに最近の私たちは少しぎくしゃくしていたかもしれない。
でもそんなこと大した問題ではないと思っていた。多少のすれ違いがあったとしてもまたすぐに、君はいつも通りの笑顔を見せてくれると信じていた。
電話の向こうの彼の声は、いつもより少し遠く聞こえた。
まだ取り返しがつくはずだ、何か方法があるはずだ。とりあえずきちんと話しをしようと説得し、食事の約束を取り付けることに私は成功した。

待ち合わせ場所にやってきた彼を見て、彼に会うのがずいぶん久しぶりだということに気づいた。髪が少し長くなり、少し大人っぽくなっていた。なんだか知らない男の人のように見えた。
食事の間中、いつものように彼は笑顔を絶やさなかった。しかし、私の問いかけをはぐらかすように友達のMの話しばかりしている。
彼の鈴の音のような綺麗な声を聞いているだけでなんだか泣き出しそうになってしまうので、私は仕方なく視線を泳がせた。彼の後ろの窓から雑居ビルの安っぽいネオンが見える。ネオンはまるで彼みたいだ。ぴかぴかと光っているのに、その背後には薄暗闇が広がっている。

うまくいっていた頃の私たちを思い出す。あの頃彼が笑顔の合間で、私に何かを打ち明けようとしていたのはなんとなく分かっていた。何度もそれを切り出そうとしては飲み込んでいたことも。
それをなんとなく受け流したのは、怖かったからかもしれない。いや、それ以前に、彼の屈託のない笑顔を見ているとなんにも問題はないんだと思えたんだ。
私は間違っていたのだろうか。私は知らぬ間に、彼のなにかを踏みにじっていたのだろうか。

話題はいつの間にか、彼が最近仕事で知り合ったというある女の話しに切り替わっていた。なんだか変わった女のようだ。趣味で小説を書いているらしい。根暗で気色が悪いやつだ、と私は思う。

彼がトイレに行っている間に、私は食事の会計を済ませてしまった。帰ってきた彼は「ありがとう」と小さく呟いた。
彼に会うのは、きっとこれが最後になるのだろう。
エレベーターに乗り込むと、雨の匂いに混じった彼の香りが私の涙腺を刺激する。冷酷な女だと思われていたのだろうか、彼は涙目になった私をまんまるな瞳で見つめている。たまらなくなって、私は彼を抱きしめる。彼は少し抵抗したが、すぐに大人しくなった。外に出て私がタクシーを止めると、彼は黙って一緒に乗り込んできた。

「朝起きた瞬間が一番悲しいのはどうしてだろう。ねえ、全ての記憶には色と形があると思わない?その手触りを思い出すと、僕はいつも叫び出したくなるんだ。」
私のベットに腰掛けて、窓の外に視線を向けたまま彼はそう言った。
彼が何について話しているのか、私はいつも、うまく理解できなかった。理解できないが、彼のそういう、わけのわからないところが好きだった。彼の言葉のリズムが、私の心を確かに揺り動かす瞬間があるのだ。全てを洗いざらい、話してしまいたいような気持ちになるのだ。でも私はそれが恥ずかしかった。なんだか恥ずかしくてたまらなくなって、私はいつも黙った。黙る私を見て悲しげになる彼を見る前に、私は彼を揶揄った。

薄暗い部屋にランプを灯すと、見慣れた彼の横顔が浮かび上がった。私は、はじめて彼に会った日のことを思い出していた。
雨の夜だった。彼はベージュのシャツを着ていた。煩い店内にはそぐわない、品のある佇まいの男の子。見かけによらず、彼はよく話す人だった。そのほとんどが難解な内容であまり理解できなかったけれど、彼の話す声のトーンや言葉のリズムが心地よかった。私は彼の発声に体を預けながら、相槌を打っていた。
「僕は、僕と同じ言葉を話す人を探しているんだよ」
夜明け前、雨上がりの路地裏で、彼は私にそう言った。明星が東の空に光っているのが見えた。

いつの間にか言葉は途切れ、彼は小さな音楽に合わせてぼんやりと揺れている。もうなにも話すことがない私は、静かに、できるだけ静かに、彼の隣に腰掛けた。彼を怖がらせることがないように、もうこれ以上彼を傷つけることがないように。
「君は僕のことなんて、少しも好きじゃないんだと思っていたよ。」
彼がこちらを見つめながら、彼はそう言って笑った。 
夜が始まろうとしている。君と過ごす、たぶん最後の夜が。

Aのこと

高校時代の友人に、何に苦しんでいるのかは分からないが、いつも何かが苦しそうな女の子がいた。彼女は普段、美しくてリーダーシップのある女子たちのグループにいるのだが、「苦しい季節」がピークに達すると、ひとりでそっと私のそばにやってきて数週間ほどの時間を私と一緒に過ごすのだ。

よくふたりで授業を抜けだして校舎の裏庭に夕日を見に行った。(定時制高校だったので、春は二時間目の終わり頃にちょうど真っ赤な夕日が見える)
そのあとは薄暗い道を歩いて、ほの明かりの灯った体育館の裏を通り、図書館棟に入って奥の自習机で他愛のないおしゃべりをした。
体育館からはバレーボールが跳ねる音と、賑やかな歓声が聞こえている。春の空気の中には夏の気配がほのかに混じっていて胸が締め付けられた。

どういったことが苦しいの?私は彼女に聞いてみる。
「わからないんだ。春の光とか、青空とか、新緑の芽吹きの気配とか、そういったものがなんだかもう、苦しくて苦しくて仕方がないんだ」
思いつめた瞳で彼女は私を睨みつける。私は思う、ああなんて美しい瞳なんだろうと。

うまくは言えないけど、そういう時の彼女は、苦しみによって作り出した美しい世界を差し出して、じっと私を見ているように見えた。まるで乞うような瞳で。
たまらなくなった私は世界の扉の全てをとじて、彼女の物語りに全身を委ねて共鳴するのだ。私の介入によってその世界は本物になる。やっぱり一人よりも二人の同意が必要なのだ。彼女がそこで思いきり遊んで、思いきり休めるように。

そうやって過ごす時間を私たちは心から愛していたと思う。
彼女は小さくて、白くて、華奢で、なんだかおもちゃみたいに美しい女の子だったので、いつも似合いの上級生の恋人がいた。
しかし私たちの間に流れていた親密な雰囲気には、彼女がよそ行き顔で恋人と作るそれよりも、ずっと愛の景色に酷似した気配があったのではないだろうか。

寮に帰ると私の部屋にはすでに彼女が待っていて、私の布団で寝ていたり、私の本を読んでいたりした。
そうやってしばらくの蜜月を過ごしていると、彼女は少しづつ元気になり、もう寮に帰っても部屋に彼女はおらず、二時間目の終わりに夕日を見に行く日々も静かに終わっていくのだ。

そんなことが一年のうちに一、二回はあった。

そして「苦しい季節」の期間外にいる彼女は、私を見ても他人のように遠くから笑いかけるだけだった。
私は保護施設じゃねえぞ、彼女の姿に毒づいてみるが、気まぐれに巡ってくるそんな日々や、気まぐれな猫みたいな彼女のことを、実のところ私はけっこう気に入っていたのだと思う。

バスに乗って、青く晴れた美しい季節を眺めていると、唐突に彼女との柔らかな時間が思い出された。もう随分むかしのことだ。
春だからだろうか。それとも今年の私がまるであの頃の彼女のように、春の美しさに少しも浮き足立てないからだろうか。

わからないんだ。春の光とか、青空とか、新緑の芽吹きの気配とか、そういったものがなんだかもう、苦しくて苦しくて仕方がないんだ。

私をじっと見つめて、そう言い放った彼女の姿を思い出す。
理由なんてわからない、しかし私はバスがどこにも着かなければいいと思っていた。このままどこかに逃げ出してしまいたい気持ちで、なんだか泣き出してしまいそうだった。

あの頃の彼女の苦しみは往々にして抽象的で、私の目には美しい芸術品のように見えていた。けしてそれに触れてはいけないような気がして、彼女の苦しみの具体的な理由に踏み込んだことはなかった。

しかし実際のところ彼女は、今の私と寸分違わず同じ気持ちだったはないだろうか。
彼女の苦しみの理由は、美しくもなければ芸術的でもなく、現実に即していて、具体的で、時に生々しくすら感じられるものだったのではないか。

きっと彼女はそれを真正面から認識するのが怖かったのだ。
見つめてしまったが最後、自分は本当に逃げ出してしまうのではないか、自分自身を保っていられないのではないか。
そんなことがもしも起きればどれだけの人が嘆き悲しむだろう、困るだろう、自分をなじるだろう。自分はなんとかここに踏み止まらなければならない。
そんなことを思っていたのだろう。
そうやって押し込めた思いが限界値を迎える頃、彼女は静かに私のそばにやってきていたのだろう。
自由奔放な猫のように見えた彼女は、実は真面目な努力家だったのだ。

何が苦しいのかは分からない、でも何かが苦しくて仕方がない。それをうまく言葉にして話すことはできないが、その苦しみは美しいはずの春を確実に曇らせていく。それでもけして繰り返される毎日から逃げ出すことはできず、今日も明日も、私たちはなんとか1日を終えなければならない。

そんな彼女が私に差し出したあの世界は、間違いなく夢のように美しかった。私たちには多分たったひとつだけ共通点があったのだ。
信号が青に変わり、否応なく今日も1日は始まっていく。

どうか私たちの日々が、この春の光に溢れますように。 私たちが苦しみの根源を解放できますように。

彼女のことを祈ったのか、自分について祈ったのかも分からなかったが、そう心の中で唱えると何か強い感情が込み上げてきて、バスから降りた私はしばらくそこから動けなかった。

300ml

私の願いは幼い頃からたった一つ、「誰かに理解されたい」それだけだった。理解を欲するあまり失語症のようになり誰とも上手く話ができなくなるほど、私はいつもいつも理解されたかった。
あの年の夏、私は東京を彷徨っていた。こんなにも、焦がれるように、自分が何を探しているのかは理解できなかった。しかし私は確かに何かを探していた。明確な形を持った何かを。
何人もの人と真昼間の喫茶店で向かい合った。
知らない人に会うのは億劫で仕方が無かった。
大切なのは効率だ。短時間でいかに相手の真実をえぐり出す質問をして、次回を設けるべき相手なのかどうかを見極めるの。私と同じようにこの大都会で迷子になってしまった友人にそうアドバイスを受けたことがある。
相手を目の前にして私が心の中で叫んでいたことはひとつだった。あなたは私の言葉が理解できる?私と同じ言葉でお話をしてくれる?
さんさんと降り注ぐ真昼の光も、喫茶店の喧騒も、自分と相手を徐々に見失わせるだけだった。私が何を話しているのか、誰ひとりとして理解しなかった。きみは少し変わった女の子だね?そう言って困ったように笑っていた。その笑顔を見ていると言葉が出てこなくなり私も困った。
しまいには私は話すことをやめてしまい、ただ相手の話しにタイミングよく笑顔で頷く機械のように自分を感じた。だから延々と話をしてくれる人が好きだった。沈黙はこわい。
終電車が嫌いだ、嫌でも自分がこの世界で一人ぼっちなのだという事実と目が合ってしまうから。家に帰ると恐ろしく虚しい気持ちが私をおそった。どんなに笑いあったって孤独と孤独は混ざり合わないのだ。

ここにあるのは一つのおとぎ話だ。
まだ言葉も話せないほどに幼い頃、私は不思議な女とふたりきりで暮らしていたことがある。彼女は言葉の魔法を使う。彼女が話し出せばどんな場所も宮殿のような光に包まれた場所に変わり、彼女が愛していると言えばそこには確かに純粋無垢な愛が出現し、私はそれを何度だって体験するのだ。彼女はいつも私だけを見ていた。私の体調を気遣い、私の心を気遣い、私の心身の成長を気遣ってくれた。私は安心して彼女の服の裾を引っ張る。彼女と私が暮らしていた家のベランダの眼前には海が広がっていた。海はいつも私たちの感情を受け止めて寄り添いながら歌う。彼女との暮らしには二人だけにしか理解できない幸福感に包まれていた。
幻想のように美しい光景が何度も何度も蘇っては消えていく。彼女が私のもとを去った日を今でも覚えている。音楽は鳴り止み、光は消え、そこには薄汚れた現実だけが残っていた。彼女は忽然といなくなり、私だけが灰色の景色の中に取り残された。
覚えている。下世話な人々が知ったように私について語り、哀れみ、蔑み、排除した。私は彼らに迎合しようとして失敗し、自の言葉を見失った。
彼女によく似た女が私の前に現れて、私の手を引っ張っていった。前へ、前へ。女は強引で、けして振り返らない。あなたにはどこが前なのかわかっているのか。私は彼女によく似たその女を心の底から憎もうとした。しかし憎しみは自分にはねかえり、私は女の中に、いや世界の全てにあの魔法の影を求めてやまなかった。気が狂うほどの恋しさだった。狂ってしまったほうが楽だと感じるほど寂しかった。歩くこともできず、傷だらけで引きずられている私の姿に女は気づかない。女はけして振り返らず、夢を見るような瞳でただ私を引きずっていく。私は失ってしまった光景を探すための旅に出る決意を日に日に固めることしかできなかった。

日溜まりから次の日溜まりへとジャンプする。長い長い跳躍の時間にこの世界の暗闇を思い知る。空の上には何があるの?空の上には君の全ての記憶が保管されているんだよ。求めているものは必ず与えられるが、求め続ける限り次々に失い続けていくしかない。
私は自分が何を探しているのか検討もつかなかった。それどころか、自分が何かを探し続けていることにすら気づかなかった。ただ頭が変になりそうな渇きと、瞬間的な幸福感と、何も見つけられなかったと理解した時の失望を何度も繰り返した。まるで目の見えない老人が光を求めて徘徊するように私には何もわからなかった。

夢の中の精神の部屋は、私が住んでいる現実の部屋より少しばかり大きく、コンクリ壁の無機質な部屋だった。家具は幼い頃から見知ったものが数点配列されており、どことなく懐かしさを感じる。暗く淡い色調の夢。私はこの部屋をよく知っているが、けして思い出したくはなかった。部屋の中で私は小柄で年いきの色の白い女性と話をしている。女性は私を引き取ることになっている。私は女性となんとか打ち解けたいと願っている。窓の外は霧雨だ。湿度が息苦しい。女性は私についてこう思っている。「彼女を引き取る以上、彼女を真っ当な人間として教育しなおすのが私の勤めだ。私のやり方には完璧に従ってもらわなければならない。しかし彼女はエキセントリックで私には理解しがたい」女性の心が私に伝わってきて、私は息苦しい。私はただ人間同士としてあなたと打ち解けたいだけなのに。そうしてふたりきり、まるでひとりの人間のように暮らしていきたいだけなのに。やがて女性は部屋を去り、大昔に恋人だった男が精神の部屋にやってくる。思い出したくもなかった青白い男の顔。幻想の中の私を愛し、現実の私を理解しなかった。狭い玄関で彼が私に笑いかけている。私は投げやりな気持ちで彼を迎え入れる。彼は小さなホールケーキを私に差し出す。君は今日が何の日か知っているか?今日は君の物語を聞きにきたんだ。上手く話せなっくたっていいから、話をして欲しい。君の話が聞きたい。ずっと聞きたかったんだ。ケーキの上には小さな小さなツリーが乗っている。てっぺんで少し傾いた、赤いリボンが滲み始める。

Lust

こんな嵐の夜には、春子のことをお話しましょう。

春子は私の学友の娘でした。
春子の母親は女手一つで春子を育て、春子が一五歳の時に急死しました。
一人娘の春子をたいそう愛し、可愛がっていたと聞いております。
表沙汰にはなりませんでした。しかし、どうやら自死だったのではないかという噂が実しやかに囁かれました。理由は誰にも分かりませんでした。
彼女の葬儀で、あの世に咲く暗い花のような佇まいの、セーラー服姿の春子を見ました。
母親の柩の横で頬を赤らめて涙をこらえる春子は、私の目になぜかとても扇情的にうつりました。

葬儀が終わり葬儀場をあとにしようとする私の目の前を、春子と四十絡みのずいぶんと背の高い、風貌の整った紳士が通り過ぎて行きました。
翻る紺色のスカートの裾は、少女の清らかさを表現しているように感じられました。
春子は私に気づくと、ぺこりと頭を下げて、それから紳士の腕をそっと組み直し彼を見上げました。
春子のしなやかな指先が美しい蔦のように紳士の腕にからまる様を、私は息を呑んで見つめていました。
紳士は春子をじっと見つめ返すと、彼女の手に反対の手を重ね、それから二人は静かに寄り添いながら質素な霊柩車の中へと消えて行きました。
苦しい恋をする男の瞳にのみ宿る湿り気が紳士の目の奥にはありました。
旧友が乗った車が式場を後にするのを私は呆然と眺めていました。
しかしあまりにも自然な一連の場面になにか解釈をつけるのも不謹慎に思われ、私は心の中で旧友に花を手向けるばかりなのでした。


旧友の葬儀以来、私は春子のことをすっかり忘れて生活をしておりました。
私は高校を卒業してすぐに上京し、上流階級の男性が集まるサロンの女給を生業としておりました。
私は大して美しい容貌ではありませんが、お客様は私のことを、この銀座のどんな女よりも気立てが良いと評して下さいます。
それは分かりません。 しかし私が、人よりも幾分面倒見が良く、優しいのは確かだと思います。
悲しい人を見ると一緒に泣きたくなり、苦しい人を見ると抱きしめて差し上げたくなってしまうのです。
なぜかは分かりません。物心ついた頃からずっとそうやって生きてきました。
良いことばかりではありません。こういう性分のせいでしなくてもいい苦労ばかり背負ってきたような気がします。
しかこの商売ではそういった私の性分が良い方向に生きてくれるようでした。
気品ある良いお客様方にも恵まれ、厳しい銀座の街で十数年必死で働いているうちに、私はすっかりこの街の女になっておりました。

忘れもしないその日は厳しい大雪でした。
伽藍堂のように静まり返った暗いお店の中で、若い女給とふたり、お客様を待つ時間は永遠のように感じられました。
突如ドアベルが鳴り、笑い出してしまいそうなほど厳かな声で、黒服がお客様の来店を告げました。
馴染みのお得意様が、すらりと背の高い紳士を連れられて、白いものを払いながら大雪から逃れるようにサロンに入って来られました。
私たちは本日はじめてのお客にホッとしながら、いらっしゃいまし、と愛想よく声をうねらせました。
お連れ様の外套をお預かりし、ロッカーにしまいながら紳士の顔をはじめて間近に見た瞬間、私は息を呑んでその場であっと声を上げそうになりました。
気品香るその紳士は間違いなく、あの葬儀の日に春子と霊柩車に消えていったあの人だったのです。

お得意様と紳士は奥のボックス席に腰掛けられました。
おふたりはもうすでに、ずいぶん出来上がっている様子でした。
「ああ、今日は美しい雪の日!君たちも大いに飲み給え!」
お得意様が愉快な調子で声を上げられます。
紳士も寡黙な気配を崩さぬまま、にこやかにこの夜を楽しんでいらっしゃる様子でした。

しかし私の脳裏に浮かんでは消えるのは、あの日の春子と紳士の眼差しが絡み合う様だけで、正直に申し上げて気が気ではありませんでした。
あれからどれくらいの年月がたったでしょう。春子はもう二十歳を超えているでしょうか。目の前の紳士は春子の一体誰なのでしょうか。
しばらくすると、若い女給とお得意様がふたりで何かを話し込みはじめました。
私が紳士のグラスにお酒を足そうとすると、紳士は私の耳元に顔を近づけこうおっしゃりました。
「私には一目見ただけでわかるよ。君には聖女の素養がある。君の客として、僕はこの店に通いつめることに決めた。」
ああ!なんだか今夜はお酒がよく回ってしまう!
私はぼんやりとそう思うことしかできませんでした。

あの夜の言葉どおり、彼は三日とあけずに私のサロンに通っていらっしゃるようになりました。
はじめはお得意様とおふたりで、そのうち一人でもお店に出入りするようになられました。
薄暗いカウンター席の端に腰掛けて静かにワインを傾けられるその様は、私の目にはため息が出るほど美しく映っていました。
初めのうちは戸惑いを隠せずにいましたが、いつのまにか春子のことを聞きそびれ、紳士の穏やかな気配に安堵し、私の心は日を追うごとにゆるんでゆきました。
彼の名刺には、大手の電気会社の役員という肩書きが踊っていました。
たまに部下達やお得意先の方々を大勢連れられて、私の売り上げに大いに貢献して下さるのでした。

そこに誰かが一線を引いたとして、その線の内側になんとか留まろうと私は必死で生きて参りました。
この銀座で私はたくさんの男の人に出会いましたが、私はその線の外側に出ることを堅く自分に禁じていました。
しかし彼には不思議な色香がありました。
暗い暗い淵の底へと彼となら潜って行ってもいいと、むしろそれが本望であると、ある種の女に思わせてしまう抗い難い引力を、彼は無自覚に放っていました。
彼がグラスに口づけるたびに、けして私を見つめない伏し目がちな瞳を見るたびに、強い渇望を止められなくなりそうでした。
私は彼の口から春子について何も聞きたくないという気持ちになっていました。
それは女という動物としての本能のようなものだったのでしょう。
数ヶ月後、私は彼と夜を共にしました。
どうしてもと願ったのは私の方でした。

それからというもの、私は来る日も来る日も、狂ったように彼の仕事部屋へと通いつめました。
それは苦しい日々でした。
幸福とは、胸のうちにわだかまるこの息苦しさのことだったのだと私ははじめて知りました。
私はいつの間にか、ありったけの愛情を彼の中に注ぎ込んでしまいたいと願うようになっていました。
例えばそれで私がからっぽになってしまってもそんなのまったくかまわない。理不尽なほど凶暴な愛おしさが私の胸の中に渦巻いていました。
いつも春子の影がぺったりと彼の内側に張り付いていることに私はすでに気づいておりました。たまに私の向こう側にある春子の姿を、懐かしそうに見つめていることも。

ある夜、彼は私に商売を持ちかけました。
その商売、「東海道沿いに、旅行者をもてなすための旅籠を」というのは表向きの大義名分。
大きな声では言えませんが、その実は長期滞在者向けの娼館を営んでみないか、というものでした。
私は声が出ないほどの衝撃を受けましたが、心はすでに決まっていました。
「出資はすべて私がするから、君に女将をしてほしい。
はじめて君を見た日に私は思ったんだよ。ああ、この女のおかげで夢が叶うってね。」

紳士は熱っぽい口調で私にこう語り始めました。

「私が今の地位と名声を得るまでの秘密の物語をお前に語ろう。誰でもない貴女にだから、私は語るのだよ。きっと、他人には話してくれるなよ。

あの頃の私の姿をお前は想像できるだろうか。
私は事業に失敗し、金もなく、家族にも逃げられ、自分がなぜ生きているのかまったく理解できなくなっていた。

年内に死のうと思っていたんだ。
有り金とほんの少しの着替えを持って、私はこの世の果てのある田舎町に逃げたのだ。
死に場所を探して数日、街中をほっつき歩いた。 そしてタバコ屋の隣に落ちていた漬物石の上で、力尽きた私の意識は途切れかけていたんだ。

死に神様だと思ったよ。セーラー服の少女が目の前に立って、私に手を差し出していた。やっと迎えに来てくれたのか、私はそうつぶやいた。そこでわけがわからなくなり、気持ちのいい白い光に包まれたんだ。

気がつくと、見知らぬ天井が真上にあった。
さきほどの少女と、その母親と思しき女が私の顔を覗き込んでいたよ。

わけも分からず私が体を起こすと、少女がじっとわたしを見つめたんだ。私も少女を見つめ返した。
不思議な目だった。その瞳は怖いくらいに透き通り、同時に、痛々しいほど攻撃的だった。

あの瞬間に沸き起こった感情を私は今でもうまく言葉にすることができない。
それは死にぞこなってしまったという安っぽい後悔ではなかった。
なぜだかわからない。しかし、今日まで味わってきた全ての受難は、今この瞬間のためにあったのだという確信だけがあったのだよ。
稲妻のようだった。あんなことが自分の人生に起こるなんて考えたこともなかった。

その日から彼女は、夜が来るたびに母親に秘密で私を二階の端の自室に呼ぶようになった。
私たちは彼女の小さなベットの上で、世界の扉を閉じるようにして抱き合った。

夜は時間という概念を失い、伸びたり縮んだりを繰り返しながら私達のまわりをくるくると回っていた。まるで星のようだと思った。
いつも暗闇の中を歩いていたような気がする。
私は彼女というたったひとつの光を頼りに、己の内面世界を旅してまわったんだ。
そこにはこの世の全てがあった。
阿鼻叫喚の地獄もあれば、花咲き乱れる桃源郷もあった。
鬼にも出会った、仏様にも出会った。
この世界ができた瞬間から今日までの無限の進化を体験した。
今までに出会った、全ての瞳を思い出した。
全ての感情の根源が沸点に達し、私は叫びだしそうだった。
諦念によく似た開放感だけがあった。

私は夢中で彼女におとぎ話を語った。
ある日は北の果ての孤独な民族の最後の日々について語り、またある日は、家族を皆殺しにされた少年が国の主に復讐を遂げるまでの葛藤について語った。
次から次へと、言葉が口をついて生まれていった。
それらは全て、彼女とのまどろみの中で体験した私の精神の彷徨についての物語だった。

彼女は食い入るような目でわたしを見つめて離さずに話を聞いていた。頷きさえしなかった。
彼女が私を愛していたのかは分からない。
しかしふたりで過ごす幾度もの短い夜の間は、全身全霊の愛情が私に傾けられているのがわかった。
それで十分だった。それ以上なにもいらなかった。

私は朝が来るたびに彼女にお金を支払った。それが自然なことだったんだ。夜の間に彼女が私に傾けている熱は、そういう類の情熱だったんだ。
限りなく恋に近い、しかし明らかに何か別の熱量。
君は笑うかもしれない。彼女のベットの中で、私は彼女を「おかあさん」と呼んだんだ。彼女も笑っていたよ。

持ち金がなくなったら、私は彼女の元から去らなければいけないと考えていた。
しかしそれよりも先に運命が私たちに終わりの時間を提示した。
彼女の母親が死んだのだ。母親が私に好意を寄せていることは理解していた。
しかし私にはどうしようもなかったのだ。私は彼女との時間のためだけにここにいなければならなかったのだから。

葬儀が終わって数週間後、私たちは別れた。
母親と私を同時に失った彼女が涙を見せることは遂になかった。
しかし、実際のところあの人はなにも失っていなかったのだよ。何も彼女のものにならないから、失いようがないんだ。

たまに想像するんだよ。
今もどこかで誰かのことを、身を焦がすように愛している春子の姿を。
あの頃のことを思い出すたびに私は何度も確信するんだ。
春子は生まれながらの娼婦だったのだよ。
彼女の神聖なベットの中で、私はこの世の懐かしさの根源をこの目で見たのだ。

あの街から帰ってきた私の目には、東京がまったく別の場所に見えたものだよ。 自分が違う人間に生まれ変わったように感じられた。
あれから私は己を忘れて働き、仕事を立て直し、新しい家庭を持った。
そして、今きみの前でこうしている。
全てが夢のようだ。」

語り終えると、紳士は安心したように眠りの国へと堕ちてゆきました。
安らかなその寝顔を眺めながら、私は涙が溢れて止まりませんでした。

それからしばらくして、私達の商売が軌道に乗った頃、紳士は家族とともにどこか遠い国へ行ってしまいました。
最後の逢瀬の日、紳士は始終静かに笑っていました。
悲しみと紳士への強い愛情が、静かな波のように押し寄せては消えて行きました。
どうかお元気で、どうかお幸せに。
心の底から、私はそう祈っていました。

春子がこの館へやってきたのはそれから数年ほどが過ぎたある暑い夏の日のことでした。
今でもあの日のことはよく覚えています。
白いワンピースから棒のような手足をのぞかせて、うつむき加減の顔はつば広帽にかくれ、唇だけがてらてらと光を反射していました。
その姿を一目見ただけで、春子がどういう女に成長したのかはっきり分かりました。
春子は私の館の玄関をくぐり「ごきげんよう」とにっこり笑いました。
いくつもの愛を失い、それでも人を愛することを諦めることができない女の顔がそこにはありました。
まぶしいほど輝くその笑顔の下の生の業火が苦しいほどに理解できましたので、とにかくお上がりなさいと静かに声をかけることしか私にはできませんでした。

トロイメライ

ペティちゃんに手を引かれるようにして、私は10年ぶりにふるさとへと向かう電車に揺られていました。
何度も心臓が口から飛び出しそうになる私を、ペティちゃんは笑いながらはげましてくれました。

私のふるさとはここから電車で5時間ほど西にある、さびれた片田舎です。
私があの街を出たのは15歳の時です。
義務教育を終えると同時に、私は逃げ出すように街を出ました。ふるさとから遠く離れた街で部屋を借り、学校に通いはじめました。

私が彼女に出会ったのは、ふるさとを離れてから1年ほどたったある夜のことでした。
あの日の夜、私はファッション雑誌をぱらぱらとめくりながら扇風機の風に当たって髪を乾かしていました。ファッション誌の中には色とりどりの服を着た、同い年くらの女の子がポーズを取っています。
私はそれを自分とはまったく無関係な世界にあるものだと思いました。
なんでこんなものを買ってしまったのだろうと深く後悔していました。
メイクの特集ページを眺めながら、なんだかとてもみじめな気持ちになりました。
おしゃれすることなんて私には許されないのだと思いました。
私は地味で目立たない女の子でした。

それは突如、起こりました。
雑誌の中で一番綺麗な女の子が私にウィンクしたのです。そして紙面から手がぐいぐいと伸び、湖から精が姿をぬっと表すように、なんと彼女は私の目の前にあらわれたのでした。
私は声が出ないほどびっくりして口をあんぐりと開けて彼女を見つめました。
彼女はうふふと笑ってから、怖いほど綺麗な真顔になり
「なんて顔してんのよ」
と言いました。それからあたりを見回して、
「辛気臭い部屋ねえ、あなたも辛気臭いわ。」
そう言ってため息をつきました。
ぎゃあっと悲鳴を上げて私は部屋を駆け出しました。
心臓が爆音で鳴っていました。
ふらふらとアスファルトを歩き、少し冷静になってコンビニに入り、隣の住人が帰宅したのを見計らってからおそるおそる部屋に戻りました。
部屋にあの女の子の姿はありませんでした。
それがペティちゃんとの出会いでした。

それからというもの、ごく当然のような顔をして、ペティちゃんは私の生活に侵入してくるようになりました。
部屋に帰ると頭にタオルを巻いた姿でソファに寝そべって本を読んでいたり、ベットで大の字になってすーぴーといびきをかいていたり、ミニキッチンでチャーハンを炒めていたりしました。
最初の頃、ペティちゃんがどこからともなくぬっとあらわれるたびに、私はいちいち腰をぬかすほど驚いていました。
しかし私はそのうち彼女の存在に慣れ、ちょくちょく会話を交わすようになりました。
自分の適応力に拍手を送りたい気持ちでいっぱいです。

彼女は悪魔のように美しい容姿をしていました。そして鈴のように透き通った声でいつも毒舌を吐いていました。彼女が通りすがりの女の子を「あの女ブスね」と言うのを何度も聞きました。しかし彼女より美しい女の子なんてそうそういるわけがないのです。通りすがりのそのブスが、私にはとても可愛らしく見えていました。
少なくとも私なんかよりはずっと。

いつの頃からか私は彼女に親しみを感じるようになっていました。
それは奇妙な友情でした。
私はペティちゃんに、ずっと誰にも話せなかった秘密を打ち明けました。

ある男の子に関するお話しでした。彼は私の初恋の人です。
それは私にとって、みじめで恥ずかしい、悲しい思い出でした。

彼は私の家のすぐ側に住んでいました。小さい頃から私たちは、近所の公園で毎日走り回って遊んでいましたし、小学校に上がると手をつないで一緒に登校するようになりました。大人になったらあなたのお嫁さんになるんだと幼い私は豪語し、彼も照れながらまんざらでもなさそうでした。

しかし小学校5年生に上がった途端、私は突然彼と話しをするのが恥ずかしくなってしまいました。私たちは不自然に口をきかなくなりました。廊下でも顔を背けてすれ違いました。
今思えば思春期だったのだと思います。行動とは裏腹に、彼への気持ちはどんどんふくらんでいきました。自分でもどうすればいいのかわからないほど、何をしていても彼の名前が頭をちらついて離れませんでした。

話したいのに話しかけられない。いつも機会を伺っているのにいざ彼が近くに来ると逃げ出してしまう。
もんもんとそんな日々を過ごしていた私は、中学にあがってすぐのあるうららかな春の日に決意して、思いの丈を長々と綴った気持ちの悪いラブレターを彼の靴箱につっこみました。
突然話ができなくなってさみしかったこと、また仲良くしたいと思っていること、もしもできるのならば恋人として・・・うんぬん。
しかし待てど暮らせど、返事は来ませんでした。

それからしばらくして、突然いじめが始まりました。 クラスメイトたちは私にブスだと罵声を浴びせていたと思ったら、次の休み時間には空気のようにそこにいないものとして無視を決め込みました。
いじめられるに至った理由は思い当たりませんでした。だって私はそれまで本当に慎ましく生活していたのです。

教室の端っこで静かに本を読んでいたある日のお昼休み、クラスで一番のデブがつかつかと私のところにやってきました。
私は彼を見上げました。
彼はにやにやと笑いながら私の心を打ち砕くのに必要十分な言葉の拳銃を発砲しました。
「おまえ、中川にラブレター渡したんだって?彼女にして下さいだって?ブスのくせに気持ち悪い」
がらがらと足元が崩れ落ちていくのを感じました。
「身の程知らず。もう一度鏡で自分の顔をよく見てみろよ」
頭のてっぺんが冷んやりとしました。
どうしてこいつが、それを知っているんだ。
目がまわりそうな心地でした。
ふと視線を感じ、教室のすみに目をやりました。
そして私は見つけたのです。
彼が扉の向こうの廊下からこちらの様子をじっと見ているのを。
私は反射的に彼の方へ歩み出しましたが、彼と目があった瞬間、へなへなと身体の力が抜けてその場に座り込んでしまいました。
彼だったんだ、彼が私のラブレターをみんなに見せて、このいじめを首謀していたんだ。
みじめさと悲しさと恥ずかしさが入り混じったものが怒涛のように襲いかかってきました。
それから彼に話しかけることはしませんでした。理由を聞くこともありませんでした。
私が世界で一番気持ち悪いからこうなってしまったのだと思いました。
私はいつもびくびくおどおどするようになりました。人とうまく話しができなくなりました。学校に行くのもやめて家の中にひきこもるようになりました。いつも誰かが私を指差して笑っているような気がするのです。

中学を卒業すると同時に私はあの街を出ました。二度とここには帰ってくるまいと強く心に決めて。

私は一気に話し終えました。
「どうして、どうして、どうして!なんでこんなことするのって怒らなかったのよ!この臆病者!」
ペティちゃんが涙ながらにそうさけびました。見ると、ティッシュの山をたくさんこさえていました。
私は言葉をなくてして下を向きました。
それを見たペティちゃんはしばらく沈黙した後、膝を叩いてこう言ったのです。
「よし!そいつに復讐しよう!私が協力してあげる。」
そう言うと私の手を引いて鏡の前に連れていきました。
「ほら、よく見て。暗い顔をしないで。笑って見せて?」

わたしは頬を釣り上げて笑顔のようなものを作ってみました。生まれてはじめて日光を浴びてしまったもぐらのような顔だと思いました。
「ほら、あなたの笑顔はとってもチャーミングよ。あなたはこれからもっと綺麗になるわ、あなたをブスだと言ったあいつを見返してやりましょう。」
ペティちゃんは力強くそう言いました。
「私ってば、こう見えて若い頃は本当によくモテたのよ。赤ちゃんからおじいさんまで、みんな私に夢中だった。一度私と話した人は必ず私に恋したものよ。私を手に入れようと、一財産失った男だっていたわ」
ペティちゃんはうっとりとそんなことを言いました。
「それはね、私が美しいからではないわ。私が自分のことを最高にイカしてるって思っていたからよ。そう思っている人間のそばには必ず花が咲き誇るものなのよ。だいじょぶ、あなたもそうおなりなさいな。夢のように生きていきましょう。」
ペティちゃんが世界で一番美しい顔で笑いました。

それからペティちゃんの鬼のような特訓が始まりました。
メイクに始まり、服の選び方、笑顔のつくり方、会話の受け答え、ペティちゃんは怒涛のようにそういったことを私に仕込んでいきました。スパルタ教育でした。私はおどおどとそれに取り組みはじめました。
ことあるごとにペティちゃんがどこからともなく出てきて、私をこう言って叱りつけました。
「ぐず!のろま!とんま!」

ペティちゃんに応えようと私はペティちゃんの教えを忠実に守り、いつも綺麗にお化粧をし、綺麗な服を着て、頬の筋肉がひきつるほど、微笑みを浮かべていました。

私は毎日鏡の前に立って自分をみつめました。
日に日に変わっていくその姿は、私の心を浮き足立たせました。
けして美人だとは言い難いものの、鏡に映るその姿のことを、ある日私は「許せる」と思いました。

少しづつ全てが変わりはじめました。世界が違う色をしているように感じられました。猫背を少し伸ばして歩くことができるようになりました。人目が怖くなくなりはじめました。おどおどしながらも人と会話ができるようになりました。

そうしているうちに学校を卒業した私は働きはじめ、自分で稼いだお金で生活をするようになりました。気の合う友人も何人かできました。休みの日はおもいきりおしゃれをして、おしゃれな喫茶店に入ることもありました。
私は自分をなんだか誇らしく思いました。あなたまるで普通の女の子みたいよ、って。
こんなことは私とペティちゃんでなければやれなかったに違いありません。
ペティちゃんはソファでたばこをふかしながら、満足気にこちらを見てこう言いました。
「あの頃のあなたはもうどこにもいないわ。」

それから数ヶ月がすぎたある日、私は愛の告白を受けました。
彼は私を「ぼくのかわいいみつばちちゃん」と名づけ、それはそれは愛してくれました。
愛の洪水、愛の吹雪、愛の富士山。
私はペティちゃんに心からの感謝を捧げました。彼女は幸福の天使だったのだと思いました。
それからしばらくの間、彼女は姿をあらわしませんでした。私はたまにさみしくなってほろりと涙を流しましたが、実のところペティちゃんのことはあまり思い出しませんでした。
だって本当にそれどころではなかったんですもの。蜜月が駆け足で通り過ぎ、恋人と私は幾度もの季節を夢のように手をつないで走りました。世界はきらきらと輝き、まさにそこは、誰も触れないふたりだけの国だったのです!
…しかしその幸福も長くは続きませんでした。恋人の体温が私の手になじみきった頃、彼は突然私の前から姿を消しました。

私は途方にくれ、泣き叫び、もがき苦しみました。
やはり自分は普通にはなれなかったんだ、思い上がっていたんだ、隠しても隠しきれない醜さが私にはあるんだ、だからみんな私を置いて行ってしまうんだ、ひとりぼっちだ、そう思って泣きました。
いつも思い出しすのはなぜか恋人の面影ではなく、教室の影から私を見ている鋭いひとえのあの男の視線ばかりでした。
何日も泣き過ごして部屋に閉じこもっていたある日、ふと誰かの温かい手が私の肩を抱くのを感じました。
振り返ると懐かしい、美しい顔がそこにありました。ペティちゃんでした。
彼女はほろほろと涙を流しながら言いました。
「ゆみちゃん、あの街に帰ろう?あいつに会いにいこう?そうすればきっと、あなたは自由になれるんだから。」
ペティちゃんが私の背中を撫でるのと同じリズムで、心が安らいでいくのがわかりました。
同時に、あの日からずっと私の中で燃え続けている暗い炎の存在をはっきりと自覚しました。
どんなに美しく装っても、世界で一番気持ち悪くて醜いあの女の子が私の中に居座っているんだ、わたしはいつも怯え続けていたんだ。そう思いました。

それからしばらくの入道雲が美しい夏の日、私たちはふるさとへ向かう列車に乗り込みました。

ふるさとの街の者は学校を卒業すると皆、近くの工場に勤めるか、畑を耕すか、大型ショッピングモールの店員になり、灰色の毎日を何万回も繰り返し、不平不満をこぼしながらつまらない生涯を終えていきます。
利口な若者たちはさっさと街を捨てて都会に出ていき、この街に残っているのは痴呆の老人と、口を開けば文句ばかりの中年と、薄汚いヤンキーだけでした。
私は自分のふるさとを、神様から見放された街だと思っていました。

車窓から懐かしい忌まわしい光景が見え始めました。車掌がしゃがれ声であの街の名前を放送しています。私はペティちゃんの手を強く握りました。
内蔵を吐き出してしまいそうなほど、緊張していました。

泥田の若稲が月明かりに照らされて不気味に輝いていました。空には満天の星が広がっています。相変わらず景色だけは美しいと思いながら、私は街合わせ場所に向かっていました。
暗闇の中、音は空気に消えていきます。静かな夜でした。
少し行くと、車高をずいぶん低くした黒い改造車が止まっていました。
窓からはあの男の姿が見えました。
その瞬間、全身の毛穴が広がり手のひらに汗がにじむのが分かりました。

突然扉が開いて男が顔を出しました。
「ずいぶん久しぶりやね。」
私の顔をじっと見てからにこやかに彼はそう言いました。
私も男の顔をじっと見ました。街灯のポールのように細い体をねじ曲げて男はシートに座っていました。
傷んだ金髪が左目を覆っています。10年の歳月が男を別人のように変えてしまったようです。

クラスで一番小さかった身体は大きく成長し、悠に180センチはあるでしょうか。ふっくらと丸みを帯びていた顔は、翳りを感じる角ばった顔に変化していました。しかし鋭い一重のその瞳は、あの頃とまったく同じでした。
真夏の空気が心を熱していきます。頭が熱くなり何も考えられませんでした。
私はとびきりのほほえみをこしらえると、
「ええ、久しぶりね」
そう言いながら男の車に乗り込みました。

車は夜の田舎道を走り続けました。
「ゆみちゃん、別人みたいになってもたね」
沈黙を破って男がそう言いました。
「中学を卒業してから10年たつもの。中川くんも変わったね。一瞬誰かわからなかったよ」
私は助手席から男の横顔を見つめました。
「中川くんは今なにしてるの?まだあの家に住んでる?」
男の家は、私が育った家から歩いて5分ほどの距離にありました。
「うん、住んでるよ。今は近くの工場で働いてる。もう7年になるよ」
「そう」
胸の中に沸き起こってくる感情の渦を感じながら私は相槌を打ちました。 男はこの街で生きて死んでいく者特有の薄暗い空気をまとっていました。
「ゆみちゃんは?」
「私は東の方に出て、OLになったよ。まあ、平凡だけど、10年も住んでりゃ友達もたくさんできたし、ぼちぼち楽しく過ごしてる。」
「華やかやな。中学の連中が今のゆみちゃん見たら、ほんまびっくりするやろね。」
「そうかな」
「ゆみちゃんほんま綺麗になった」
男は小さな声でそう言いました。
「そんなことはないと思うけど。でも中学の頃、私、ものすごくおとなしかったものね。今では正反対だけど。」
そう言って私はにっこりとに笑いました。

私たちはそれから、車で40分ほど走った市街にある静かな店で食事をし、大型ショッピングセンターの中のコーヒーショップでコーヒーを飲みました。私は始終、笑顔を振りまき、深く相槌を打ったりしていました。私が髪を揺らすたびにシャンプーのいい香りが拡がっているはずだし、まばたきをするたびに、ペティちゃんおすすめのアイシャドーがきらきらとまぶたに輝いているはずでした。

家の前に車をつけると男は私のほうをじっと見て、「ゆみちゃん、いつまでいるの?」と聞きました。
「長く休みが取れたから、8月いっぱいはいるつもり。」
私がそう言うと、男は俯いてずいぶん恥ずかしそうに、
「また会ってほしい」
と言いました。

早足にリビングを抜けて自室に戻ると、私はベットにおもいきりダイヴしました。
湿っぽい夏の空気が粘るように体にまとわりつきます。まるで私に10年前の夏を再生させようとしているみたいだと思いました。
私の部屋は、あの頃から何も変わっていませんでした。寝返りを打ってクリーム色の天井を見上げます。嫌に時間がゆっくりと過ぎていきます。
あの男のあの瞳。
言葉にできない感情が体の中でうごめくのを感じます。私は苦しくなって頭に枕を乗せました。

いつの間にかペティちゃんが隣にいるのを感じました。彼女が指を鳴らすとゆったりと不思議な音楽が流れ始めました。やわらかな歌声が胸に広がっていきます。 はじめて聞くのにどこか懐かしい声でした。
「だいじょうぶ。今日のあなたは完璧だったわ。あの頃のあなたはどこにもいない。それを証明するためにあなたはここに帰ってきたのだから。」
「そうは思えないけれど」
私はふてくされてそう言いました。
「だいじょうぶ。きっとすぐに連絡が来るわ、必ずよ」
その夜、私はペティちゃんを抱きしめて眠りにつきました。

ペティちゃんの予想通り、連絡はすぐに来ました。
翌日の真夜中、仕事を終えた男が私を迎えに来ました。私は念入りに化粧をしてから家を出ました。
ファミリーレストランで食事をすませて私たちは車に乗り込みました。車が走り出した時、私は男に、
「これから中川くんの家にいってもいいかな?そのほうがゆっくりお話しできるし。」
と、言いました。
男は明らかに驚いていましたが、一瞬の沈黙ののち、
「散らかっているけれど、それでもええんやったら」
とぼそりと言いました。
帰り道のレンタルショップでビデオを2本かりて、私は男の部屋へと向かいました。

男の家はおんぼろの一軒家で、道路に面した広い部屋が彼の自室でした。
この部屋に来るのは小学生の頃以来十数年ぶりでした。
部屋は様変わりしていて、あの頃の面影はありません。大きなテレビが一台、マックが一台、ソファ、ベット。ずいぶん簡素な部屋でした。
男は、この部屋から仕事行き、一日の大半を工場のラインと向き合って過ごし、疲れた身体をこの粗末なベットに横たえてくつろぐのだと思いました。
男がパソコンから音楽を流し始めました。泣き声のような物哀しい歌声です。


男に勧められてソファに腰掛けると、硬いスプリングが私の体重で軋みました。
男は緊張しているようです。
長い長い沈黙が私たちの間におりてきました。
姿は見えないけれど、ペティちゃんがそばにいるような気がしました。彼女のぬくもりを背中に感じていました。

「ゆみちゃん」
俯いていた男が顔を上げて私の名前を呼びました。
「今さらこんなこと言うの、おかしいと思うかもしれんけどさ。
俺、ずっと後悔してたんだ。でも今のゆみちゃん見てほんと安心したんだ。ゆみちゃんどうしてるんだろうっていつも考えてたから。」
あの日と同じあの瞳で、男はまっすぐに私を見て言いました。

あの頃の自分は本当にこの男のことが好きだったんだ、と私は思いました。

憎いと思いました。今さら何を言っているんだと思いました。ずたずたに傷つけてやりたいと思いました。そうすればわたしはわたしをちゃんと愛せる気がしました。あの頃の自分はもういないんだということをこの手ではっきりと確かめなければ、そうしなければ苦しくて死んでしまいそうでした。

私はゆっくりとベットに移動しました。男の隣に腰掛けて、一瞬たじろいた彼の肩をぐっと引き、男の唇に自分の唇を重ねました。
体が火照り、奇妙な浮遊感がありました。どこからともなく、ペティちゃんの音楽が聞こえてきます。
「ゆみちゃん」
顔を離すと、男は呆然とした調子で私の名前を呼びました。私は男をじっと見ました。
私を愛して傷つけばいい、あの頃の私と同じように。そう思いました。
「ゆみちゃん」
男は私を自分からぐっと離すと、突然立ち上がり、デスクの引き出しからなにかを取り出して、戻ってきました。そしてそれを私の前に差し出しました。
ぺらりと、一枚の紙切れを、私は彼から受け取りました。
しばらくそれを見つめたのち、それがなになのかを理解しました。体から血の気が引いてゆくのを感じました。
ぼろぼろになったその紙は、あの日、私が彼の靴箱にいれたラブレターだったのです。
私は立ち上がると、反射的に彼の頬を平手で打っていました。手のひらに衝撃が走るのを感じる間もないまま、部屋を飛び出し、階段を降り、家を出ました。玄関のドアを開けると、涼しい夏の夜が広がっていました。私は無我夢中で走り続けました。 どこまでもどこまでも。
あんなにも忌み嫌っていた田園風景の中を、煌々と輝く美しい星空の下を、どこまでもどこまでも。

明るい光が差し込んでいます。
穏やかなグリーンの窓辺に、クリーム色のカーテンが揺れていました。私は中学の教室にいました。
お昼休みでしょうか。机は全て教室の隅に押しやられ、室内は広々としています。
自意識でぱんぱんにふくれあがった怪物たちが学生服に身を包み、がやがやと、理解不能な異国の言語で話しをしていました。
思春期の少年少女特有のあまったるくて生臭い匂いが教室の中で充満していて、私はむせ返りそうな胸を押さえます。
窓に映った自分を見て私は息を呑みました。
私はセーラー服を着た中学生になっていました。
クラスメイトのけたたましい笑い声が聞こえます。
私は怯えていました。気づかれたら最後、私は彼らに殺されてしまうんだと思いました。
体をこわばらせながら教室の隅っこで黙々と本を読み続けていました。空気になりきって、目立たないように、そこに私がいると誰にも気づかれないように。

ああ、頭が割れそうに痛い。あっけなく私は見つかってしまったようです。耳をつんざくような笑い声が大きくなります。
あの呪いの言葉を話そうと言葉の拳銃を握り締めてあいつがわたしに近づいてくるのが見えました。

その時でした。私は突然視線を感じました。
そちらを見なくても、私を見つめているのが誰なのか分かりました。
私は一息吐いてからゆっくりと目をやりました。
街頭のように細い体、痛んだ金髪からのぞいている、鋭いひとえの瞳。
10年間一度も忘れたことがなかったその瞳が私をじっと見つめていました。

言葉にならない感情が体中を駆け巡りました。
それは憎しみによく似た愛情であり、愛情によく似た憎しみでした。

私は反射的に立ち上がり、彼につかつかと近寄ると、その目を真っ直ぐに見つめました。
そうすると弱い電流のように男の感情が流れこんできます。
一瞬、無表情だった彼の瞳が、今にも泣き出しそうな表情をしたような気がしました。
それから彼はポケットに手を入れ、それを私に差し出しました。
ぼろぼの紙切れは、あの手紙でした。

私は手紙を受け取ると、彼の横をすり抜け、静かに教室を出ました。

廊下の窓からは真夏の空が見えていました。
なんだか頭の奥の方が熱くて仕方がありません。
その時、一陣の微風が私のスカートを揺らしました。
セーラ服の少女が足早に私の隣を通りすぎて行ったのです。
きっとものすごくみじめなことがあったのでしょう。彼女は口を一文字に結び、一生懸命悲しみを耐えていました。体をこわばらせて、顔を真っ赤にして、今にも溢れそうな涙をこらえて。
彼女の後ろ姿を見送った瞬間、濁流のような感情が溢れてきました。その激しさに耐えられなくなって、私は廊下にうずくまりました。
いつかの私の姿に、彼女のおかっぱ頭は酷似していました。
悲しみに立ち向かう彼女の姿は、記憶にあるそれよりもずっと、私の目には美しく勇敢に映りました。
「いとおしい」もしかするとそれはそう名付けるのに相応しい感情だったのかもしれません。

私は膝を抱きしめて、わんわんと声を上げて泣き出しました。
あとからあとから、吐き出すような感覚を伴いながら涙は止まることを知らずに流れ続け、教室を充満する川になり、それも溢れて涙は透明な海になりました。
海は生き物のように大きな波になり、思春期の怪物たちも、男も、私も、セーラ服の少女も、全てを飲み込んでいきました。視界は暗くなり、ざあざあと、涙の足音がいつまでも聞こえていました。

気がつくと真夏の空に入道雲がどこまでも広がっていました。私は静まり返った入江に立って、穏やかな海を見つめていました。どこか遠いその場所を、私はよく知っているような気がしました。
全てが沈んでしまった涙の海の底を、ペティちゃんがゆらゆらと楽しそうに泳いでいるのが見えました。彼女はこちらを振り返って優しく笑うと、もっともっと深くへと潜っていき、そのうち見えなくなってしまいました。
空っぽになった私だけが真夏の空の下に取り残されました。

いつの間にか眠ってしまったようです。目が覚めると、私は自分の部屋のベットの上にいました。
ずいぶん長い間眠っていたようです。夢の中で私は泣いていたのでしょうか。なんだか体がとても軽いことに気づきました。
穏やかな日差しが天窓から差し込んでいます。もしかすると私はずっと彼に会いたかったのかもしれない、と、唐突に思いました。それは一度思ってみると、「ああ、そうだったのだ」と、染み渡るように感じられるひらめきでした。私はずっと、私を苛み続けたあの質問を、彼に投げかけてみたかったのです。いや、そんなことはただの言い訳でしょう。本当は仲直りをしたかったのかもしれない。ああ、きっとそうです。10年分の全てを水に流して。もう一度あの頃のように。
ペティちゃんの姿がどこにも見当たりません。涙の海の底に、彼女は泳いで帰って行ったのでしょうか。

枕元で携帯電話が光り出しました。画面に表示されているのは彼の名前です。私は一呼吸ついてから電話に手を伸ばしました。
「もしもし」
少し低い彼の声が聞こえます。
懐かしい声。彼が何を話すために電話をかけてきたのか、私はなんとなく分かるような気がしました。
窓の外には夏の終わりが映し出されています。
「10年前のことなのだけれど」
彼が静かに話しはじめるのを、どこか夢のように私は聞いていました。

手紙

こんにちは。お元気にされていますか。
今日はこの街にやってきて、はじめての日曜日です。
わたしは地下鉄に乗って、天神にやってきました。地下街でクッションカバーと絵の具を買ってから、(友達もいないし、ひとりで絵を書こうと思っています)街で一番大きな本屋さんに行き、あなたがすすめてくれた本を買い、近くのカフェに入りました。
知らない街を歩きながらあなたと歩いた東京の街を思い出していました。
つい最近まで日曜日はあなたに会える特別な日で、前の日から嬉しくて、何を着よう、どんなお化粧をしようとわくわくしていたのがとても懐かしいです。
しかし、知らない街を歩くのも悪い気持ちではありません。いや、なかなか良いものだと思います。
何度も地図を確認しながら眺める新しい景色の中で、自分が何者でもないような、不思議な気持ちになります。
知らない街をひとりで歩くのがなんとなく楽しいのは、きっとあなたのことを思いながら歩くからなのでしょう。
夏の終わりの穏やかな午後をあなたはどんなふうに過ごしているのでしょうか。東京のすみっこの、あの喫茶店で、ひたすらノートに向き合っているあなたの姿が目に浮かぶようです。
外に出るとぽつりぽつりと雨が降り出していました。
きっとそのうち、こんな旅行気分も少しづつうすれていき、ここが私の日常になり、生きる場所になっていくのだと思います。
もうすぐ秋がやってきますね。お祭りのような夏が終わり、人々が落ち着きを取り戻して一年の終わりとその先の始まりを思う、秋はあなたにとてもよく似合うような気がします。
秋の終わりにお目にかかれるのを楽しみにしています。
またお手紙書きます。