トロイメライ

ペティちゃんに手を引かれるようにして、私は10年ぶりにふるさとへと向かう電車に揺られていました。
何度も心臓が口から飛び出しそうになる私を、ペティちゃんは笑いながらはげましてくれました。

私のふるさとはここから電車で5時間ほど西にある、さびれた片田舎です。
私があの街を出たのは15歳の時です。
義務教育を終えると同時に、私は逃げ出すように街を出ました。ふるさとから遠く離れた街で部屋を借り、学校に通いはじめました。

私が彼女に出会ったのは、ふるさとを離れてから1年ほどたったある夜のことでした。
あの日の夜、私はファッション雑誌をぱらぱらとめくりながら扇風機の風に当たって髪を乾かしていました。ファッション誌の中には色とりどりの服を着た、同い年くらの女の子がポーズを取っています。
私はそれを自分とはまったく無関係な世界にあるものだと思いました。
なんでこんなものを買ってしまったのだろうと深く後悔していました。
メイクの特集ページを眺めながら、なんだかとてもみじめな気持ちになりました。
おしゃれすることなんて私には許されないのだと思いました。
私は地味で目立たない女の子でした。

それは突如、起こりました。
雑誌の中で一番綺麗な女の子が私にウィンクしたのです。そして紙面から手がぐいぐいと伸び、湖から精が姿をぬっと表すように、なんと彼女は私の目の前にあらわれたのでした。
私は声が出ないほどびっくりして口をあんぐりと開けて彼女を見つめました。
彼女はうふふと笑ってから、怖いほど綺麗な真顔になり
「なんて顔してんのよ」
と言いました。それからあたりを見回して、
「辛気臭い部屋ねえ、あなたも辛気臭いわ。」
そう言ってため息をつきました。
ぎゃあっと悲鳴を上げて私は部屋を駆け出しました。
心臓が爆音で鳴っていました。
ふらふらとアスファルトを歩き、少し冷静になってコンビニに入り、隣の住人が帰宅したのを見計らってからおそるおそる部屋に戻りました。
部屋にあの女の子の姿はありませんでした。
それがペティちゃんとの出会いでした。

それからというもの、ごく当然のような顔をして、ペティちゃんは私の生活に侵入してくるようになりました。
部屋に帰ると頭にタオルを巻いた姿でソファに寝そべって本を読んでいたり、ベットで大の字になってすーぴーといびきをかいていたり、ミニキッチンでチャーハンを炒めていたりしました。
最初の頃、ペティちゃんがどこからともなくぬっとあらわれるたびに、私はいちいち腰をぬかすほど驚いていました。
しかし私はそのうち彼女の存在に慣れ、ちょくちょく会話を交わすようになりました。
自分の適応力に拍手を送りたい気持ちでいっぱいです。

彼女は悪魔のように美しい容姿をしていました。そして鈴のように透き通った声でいつも毒舌を吐いていました。彼女が通りすがりの女の子を「あの女ブスね」と言うのを何度も聞きました。しかし彼女より美しい女の子なんてそうそういるわけがないのです。通りすがりのそのブスが、私にはとても可愛らしく見えていました。
少なくとも私なんかよりはずっと。

いつの頃からか私は彼女に親しみを感じるようになっていました。
それは奇妙な友情でした。
私はペティちゃんに、ずっと誰にも話せなかった秘密を打ち明けました。

ある男の子に関するお話しでした。彼は私の初恋の人です。
それは私にとって、みじめで恥ずかしい、悲しい思い出でした。

彼は私の家のすぐ側に住んでいました。小さい頃から私たちは、近所の公園で毎日走り回って遊んでいましたし、小学校に上がると手をつないで一緒に登校するようになりました。大人になったらあなたのお嫁さんになるんだと幼い私は豪語し、彼も照れながらまんざらでもなさそうでした。

しかし小学校5年生に上がった途端、私は突然彼と話しをするのが恥ずかしくなってしまいました。私たちは不自然に口をきかなくなりました。廊下でも顔を背けてすれ違いました。
今思えば思春期だったのだと思います。行動とは裏腹に、彼への気持ちはどんどんふくらんでいきました。自分でもどうすればいいのかわからないほど、何をしていても彼の名前が頭をちらついて離れませんでした。

話したいのに話しかけられない。いつも機会を伺っているのにいざ彼が近くに来ると逃げ出してしまう。
もんもんとそんな日々を過ごしていた私は、中学にあがってすぐのあるうららかな春の日に決意して、思いの丈を長々と綴った気持ちの悪いラブレターを彼の靴箱につっこみました。
突然話ができなくなってさみしかったこと、また仲良くしたいと思っていること、もしもできるのならば恋人として・・・うんぬん。
しかし待てど暮らせど、返事は来ませんでした。

それからしばらくして、突然いじめが始まりました。 クラスメイトたちは私にブスだと罵声を浴びせていたと思ったら、次の休み時間には空気のようにそこにいないものとして無視を決め込みました。
いじめられるに至った理由は思い当たりませんでした。だって私はそれまで本当に慎ましく生活していたのです。

教室の端っこで静かに本を読んでいたある日のお昼休み、クラスで一番のデブがつかつかと私のところにやってきました。
私は彼を見上げました。
彼はにやにやと笑いながら私の心を打ち砕くのに必要十分な言葉の拳銃を発砲しました。
「おまえ、中川にラブレター渡したんだって?彼女にして下さいだって?ブスのくせに気持ち悪い」
がらがらと足元が崩れ落ちていくのを感じました。
「身の程知らず。もう一度鏡で自分の顔をよく見てみろよ」
頭のてっぺんが冷んやりとしました。
どうしてこいつが、それを知っているんだ。
目がまわりそうな心地でした。
ふと視線を感じ、教室のすみに目をやりました。
そして私は見つけたのです。
彼が扉の向こうの廊下からこちらの様子をじっと見ているのを。
私は反射的に彼の方へ歩み出しましたが、彼と目があった瞬間、へなへなと身体の力が抜けてその場に座り込んでしまいました。
彼だったんだ、彼が私のラブレターをみんなに見せて、このいじめを首謀していたんだ。
みじめさと悲しさと恥ずかしさが入り混じったものが怒涛のように襲いかかってきました。
それから彼に話しかけることはしませんでした。理由を聞くこともありませんでした。
私が世界で一番気持ち悪いからこうなってしまったのだと思いました。
私はいつもびくびくおどおどするようになりました。人とうまく話しができなくなりました。学校に行くのもやめて家の中にひきこもるようになりました。いつも誰かが私を指差して笑っているような気がするのです。

中学を卒業すると同時に私はあの街を出ました。二度とここには帰ってくるまいと強く心に決めて。

私は一気に話し終えました。
「どうして、どうして、どうして!なんでこんなことするのって怒らなかったのよ!この臆病者!」
ペティちゃんが涙ながらにそうさけびました。見ると、ティッシュの山をたくさんこさえていました。
私は言葉をなくてして下を向きました。
それを見たペティちゃんはしばらく沈黙した後、膝を叩いてこう言ったのです。
「よし!そいつに復讐しよう!私が協力してあげる。」
そう言うと私の手を引いて鏡の前に連れていきました。
「ほら、よく見て。暗い顔をしないで。笑って見せて?」

わたしは頬を釣り上げて笑顔のようなものを作ってみました。生まれてはじめて日光を浴びてしまったもぐらのような顔だと思いました。
「ほら、あなたの笑顔はとってもチャーミングよ。あなたはこれからもっと綺麗になるわ、あなたをブスだと言ったあいつを見返してやりましょう。」
ペティちゃんは力強くそう言いました。
「私ってば、こう見えて若い頃は本当によくモテたのよ。赤ちゃんからおじいさんまで、みんな私に夢中だった。一度私と話した人は必ず私に恋したものよ。私を手に入れようと、一財産失った男だっていたわ」
ペティちゃんはうっとりとそんなことを言いました。
「それはね、私が美しいからではないわ。私が自分のことを最高にイカしてるって思っていたからよ。そう思っている人間のそばには必ず花が咲き誇るものなのよ。だいじょぶ、あなたもそうおなりなさいな。夢のように生きていきましょう。」
ペティちゃんが世界で一番美しい顔で笑いました。

それからペティちゃんの鬼のような特訓が始まりました。
メイクに始まり、服の選び方、笑顔のつくり方、会話の受け答え、ペティちゃんは怒涛のようにそういったことを私に仕込んでいきました。スパルタ教育でした。私はおどおどとそれに取り組みはじめました。
ことあるごとにペティちゃんがどこからともなく出てきて、私をこう言って叱りつけました。
「ぐず!のろま!とんま!」

ペティちゃんに応えようと私はペティちゃんの教えを忠実に守り、いつも綺麗にお化粧をし、綺麗な服を着て、頬の筋肉がひきつるほど、微笑みを浮かべていました。

私は毎日鏡の前に立って自分をみつめました。
日に日に変わっていくその姿は、私の心を浮き足立たせました。
けして美人だとは言い難いものの、鏡に映るその姿のことを、ある日私は「許せる」と思いました。

少しづつ全てが変わりはじめました。世界が違う色をしているように感じられました。猫背を少し伸ばして歩くことができるようになりました。人目が怖くなくなりはじめました。おどおどしながらも人と会話ができるようになりました。

そうしているうちに学校を卒業した私は働きはじめ、自分で稼いだお金で生活をするようになりました。気の合う友人も何人かできました。休みの日はおもいきりおしゃれをして、おしゃれな喫茶店に入ることもありました。
私は自分をなんだか誇らしく思いました。あなたまるで普通の女の子みたいよ、って。
こんなことは私とペティちゃんでなければやれなかったに違いありません。
ペティちゃんはソファでたばこをふかしながら、満足気にこちらを見てこう言いました。
「あの頃のあなたはもうどこにもいないわ。」

それから数ヶ月がすぎたある日、私は愛の告白を受けました。
彼は私を「ぼくのかわいいみつばちちゃん」と名づけ、それはそれは愛してくれました。
愛の洪水、愛の吹雪、愛の富士山。
私はペティちゃんに心からの感謝を捧げました。彼女は幸福の天使だったのだと思いました。
それからしばらくの間、彼女は姿をあらわしませんでした。私はたまにさみしくなってほろりと涙を流しましたが、実のところペティちゃんのことはあまり思い出しませんでした。
だって本当にそれどころではなかったんですもの。蜜月が駆け足で通り過ぎ、恋人と私は幾度もの季節を夢のように手をつないで走りました。世界はきらきらと輝き、まさにそこは、誰も触れないふたりだけの国だったのです!
…しかしその幸福も長くは続きませんでした。恋人の体温が私の手になじみきった頃、彼は突然私の前から姿を消しました。

私は途方にくれ、泣き叫び、もがき苦しみました。
やはり自分は普通にはなれなかったんだ、思い上がっていたんだ、隠しても隠しきれない醜さが私にはあるんだ、だからみんな私を置いて行ってしまうんだ、ひとりぼっちだ、そう思って泣きました。
いつも思い出しすのはなぜか恋人の面影ではなく、教室の影から私を見ている鋭いひとえのあの男の視線ばかりでした。
何日も泣き過ごして部屋に閉じこもっていたある日、ふと誰かの温かい手が私の肩を抱くのを感じました。
振り返ると懐かしい、美しい顔がそこにありました。ペティちゃんでした。
彼女はほろほろと涙を流しながら言いました。
「ゆみちゃん、あの街に帰ろう?あいつに会いにいこう?そうすればきっと、あなたは自由になれるんだから。」
ペティちゃんが私の背中を撫でるのと同じリズムで、心が安らいでいくのがわかりました。
同時に、あの日からずっと私の中で燃え続けている暗い炎の存在をはっきりと自覚しました。
どんなに美しく装っても、世界で一番気持ち悪くて醜いあの女の子が私の中に居座っているんだ、わたしはいつも怯え続けていたんだ。そう思いました。

それからしばらくの入道雲が美しい夏の日、私たちはふるさとへ向かう列車に乗り込みました。

ふるさとの街の者は学校を卒業すると皆、近くの工場に勤めるか、畑を耕すか、大型ショッピングモールの店員になり、灰色の毎日を何万回も繰り返し、不平不満をこぼしながらつまらない生涯を終えていきます。
利口な若者たちはさっさと街を捨てて都会に出ていき、この街に残っているのは痴呆の老人と、口を開けば文句ばかりの中年と、薄汚いヤンキーだけでした。
私は自分のふるさとを、神様から見放された街だと思っていました。

車窓から懐かしい忌まわしい光景が見え始めました。車掌がしゃがれ声であの街の名前を放送しています。私はペティちゃんの手を強く握りました。
内蔵を吐き出してしまいそうなほど、緊張していました。

泥田の若稲が月明かりに照らされて不気味に輝いていました。空には満天の星が広がっています。相変わらず景色だけは美しいと思いながら、私は街合わせ場所に向かっていました。
暗闇の中、音は空気に消えていきます。静かな夜でした。
少し行くと、車高をずいぶん低くした黒い改造車が止まっていました。
窓からはあの男の姿が見えました。
その瞬間、全身の毛穴が広がり手のひらに汗がにじむのが分かりました。

突然扉が開いて男が顔を出しました。
「ずいぶん久しぶりやね。」
私の顔をじっと見てからにこやかに彼はそう言いました。
私も男の顔をじっと見ました。街灯のポールのように細い体をねじ曲げて男はシートに座っていました。
傷んだ金髪が左目を覆っています。10年の歳月が男を別人のように変えてしまったようです。

クラスで一番小さかった身体は大きく成長し、悠に180センチはあるでしょうか。ふっくらと丸みを帯びていた顔は、翳りを感じる角ばった顔に変化していました。しかし鋭い一重のその瞳は、あの頃とまったく同じでした。
真夏の空気が心を熱していきます。頭が熱くなり何も考えられませんでした。
私はとびきりのほほえみをこしらえると、
「ええ、久しぶりね」
そう言いながら男の車に乗り込みました。

車は夜の田舎道を走り続けました。
「ゆみちゃん、別人みたいになってもたね」
沈黙を破って男がそう言いました。
「中学を卒業してから10年たつもの。中川くんも変わったね。一瞬誰かわからなかったよ」
私は助手席から男の横顔を見つめました。
「中川くんは今なにしてるの?まだあの家に住んでる?」
男の家は、私が育った家から歩いて5分ほどの距離にありました。
「うん、住んでるよ。今は近くの工場で働いてる。もう7年になるよ」
「そう」
胸の中に沸き起こってくる感情の渦を感じながら私は相槌を打ちました。 男はこの街で生きて死んでいく者特有の薄暗い空気をまとっていました。
「ゆみちゃんは?」
「私は東の方に出て、OLになったよ。まあ、平凡だけど、10年も住んでりゃ友達もたくさんできたし、ぼちぼち楽しく過ごしてる。」
「華やかやな。中学の連中が今のゆみちゃん見たら、ほんまびっくりするやろね。」
「そうかな」
「ゆみちゃんほんま綺麗になった」
男は小さな声でそう言いました。
「そんなことはないと思うけど。でも中学の頃、私、ものすごくおとなしかったものね。今では正反対だけど。」
そう言って私はにっこりとに笑いました。

私たちはそれから、車で40分ほど走った市街にある静かな店で食事をし、大型ショッピングセンターの中のコーヒーショップでコーヒーを飲みました。私は始終、笑顔を振りまき、深く相槌を打ったりしていました。私が髪を揺らすたびにシャンプーのいい香りが拡がっているはずだし、まばたきをするたびに、ペティちゃんおすすめのアイシャドーがきらきらとまぶたに輝いているはずでした。

家の前に車をつけると男は私のほうをじっと見て、「ゆみちゃん、いつまでいるの?」と聞きました。
「長く休みが取れたから、8月いっぱいはいるつもり。」
私がそう言うと、男は俯いてずいぶん恥ずかしそうに、
「また会ってほしい」
と言いました。

早足にリビングを抜けて自室に戻ると、私はベットにおもいきりダイヴしました。
湿っぽい夏の空気が粘るように体にまとわりつきます。まるで私に10年前の夏を再生させようとしているみたいだと思いました。
私の部屋は、あの頃から何も変わっていませんでした。寝返りを打ってクリーム色の天井を見上げます。嫌に時間がゆっくりと過ぎていきます。
あの男のあの瞳。
言葉にできない感情が体の中でうごめくのを感じます。私は苦しくなって頭に枕を乗せました。

いつの間にかペティちゃんが隣にいるのを感じました。彼女が指を鳴らすとゆったりと不思議な音楽が流れ始めました。やわらかな歌声が胸に広がっていきます。 はじめて聞くのにどこか懐かしい声でした。
「だいじょうぶ。今日のあなたは完璧だったわ。あの頃のあなたはどこにもいない。それを証明するためにあなたはここに帰ってきたのだから。」
「そうは思えないけれど」
私はふてくされてそう言いました。
「だいじょうぶ。きっとすぐに連絡が来るわ、必ずよ」
その夜、私はペティちゃんを抱きしめて眠りにつきました。

ペティちゃんの予想通り、連絡はすぐに来ました。
翌日の真夜中、仕事を終えた男が私を迎えに来ました。私は念入りに化粧をしてから家を出ました。
ファミリーレストランで食事をすませて私たちは車に乗り込みました。車が走り出した時、私は男に、
「これから中川くんの家にいってもいいかな?そのほうがゆっくりお話しできるし。」
と、言いました。
男は明らかに驚いていましたが、一瞬の沈黙ののち、
「散らかっているけれど、それでもええんやったら」
とぼそりと言いました。
帰り道のレンタルショップでビデオを2本かりて、私は男の部屋へと向かいました。

男の家はおんぼろの一軒家で、道路に面した広い部屋が彼の自室でした。
この部屋に来るのは小学生の頃以来十数年ぶりでした。
部屋は様変わりしていて、あの頃の面影はありません。大きなテレビが一台、マックが一台、ソファ、ベット。ずいぶん簡素な部屋でした。
男は、この部屋から仕事行き、一日の大半を工場のラインと向き合って過ごし、疲れた身体をこの粗末なベットに横たえてくつろぐのだと思いました。
男がパソコンから音楽を流し始めました。泣き声のような物哀しい歌声です。


男に勧められてソファに腰掛けると、硬いスプリングが私の体重で軋みました。
男は緊張しているようです。
長い長い沈黙が私たちの間におりてきました。
姿は見えないけれど、ペティちゃんがそばにいるような気がしました。彼女のぬくもりを背中に感じていました。

「ゆみちゃん」
俯いていた男が顔を上げて私の名前を呼びました。
「今さらこんなこと言うの、おかしいと思うかもしれんけどさ。
俺、ずっと後悔してたんだ。でも今のゆみちゃん見てほんと安心したんだ。ゆみちゃんどうしてるんだろうっていつも考えてたから。」
あの日と同じあの瞳で、男はまっすぐに私を見て言いました。

あの頃の自分は本当にこの男のことが好きだったんだ、と私は思いました。

憎いと思いました。今さら何を言っているんだと思いました。ずたずたに傷つけてやりたいと思いました。そうすればわたしはわたしをちゃんと愛せる気がしました。あの頃の自分はもういないんだということをこの手ではっきりと確かめなければ、そうしなければ苦しくて死んでしまいそうでした。

私はゆっくりとベットに移動しました。男の隣に腰掛けて、一瞬たじろいた彼の肩をぐっと引き、男の唇に自分の唇を重ねました。
体が火照り、奇妙な浮遊感がありました。どこからともなく、ペティちゃんの音楽が聞こえてきます。
「ゆみちゃん」
顔を離すと、男は呆然とした調子で私の名前を呼びました。私は男をじっと見ました。
私を愛して傷つけばいい、あの頃の私と同じように。そう思いました。
「ゆみちゃん」
男は私を自分からぐっと離すと、突然立ち上がり、デスクの引き出しからなにかを取り出して、戻ってきました。そしてそれを私の前に差し出しました。
ぺらりと、一枚の紙切れを、私は彼から受け取りました。
しばらくそれを見つめたのち、それがなになのかを理解しました。体から血の気が引いてゆくのを感じました。
ぼろぼろになったその紙は、あの日、私が彼の靴箱にいれたラブレターだったのです。
私は立ち上がると、反射的に彼の頬を平手で打っていました。手のひらに衝撃が走るのを感じる間もないまま、部屋を飛び出し、階段を降り、家を出ました。玄関のドアを開けると、涼しい夏の夜が広がっていました。私は無我夢中で走り続けました。 どこまでもどこまでも。
あんなにも忌み嫌っていた田園風景の中を、煌々と輝く美しい星空の下を、どこまでもどこまでも。

明るい光が差し込んでいます。
穏やかなグリーンの窓辺に、クリーム色のカーテンが揺れていました。私は中学の教室にいました。
お昼休みでしょうか。机は全て教室の隅に押しやられ、室内は広々としています。
自意識でぱんぱんにふくれあがった怪物たちが学生服に身を包み、がやがやと、理解不能な異国の言語で話しをしていました。
思春期の少年少女特有のあまったるくて生臭い匂いが教室の中で充満していて、私はむせ返りそうな胸を押さえます。
窓に映った自分を見て私は息を呑みました。
私はセーラー服を着た中学生になっていました。
クラスメイトのけたたましい笑い声が聞こえます。
私は怯えていました。気づかれたら最後、私は彼らに殺されてしまうんだと思いました。
体をこわばらせながら教室の隅っこで黙々と本を読み続けていました。空気になりきって、目立たないように、そこに私がいると誰にも気づかれないように。

ああ、頭が割れそうに痛い。あっけなく私は見つかってしまったようです。耳をつんざくような笑い声が大きくなります。
あの呪いの言葉を話そうと言葉の拳銃を握り締めてあいつがわたしに近づいてくるのが見えました。

その時でした。私は突然視線を感じました。
そちらを見なくても、私を見つめているのが誰なのか分かりました。
私は一息吐いてからゆっくりと目をやりました。
街頭のように細い体、痛んだ金髪からのぞいている、鋭いひとえの瞳。
10年間一度も忘れたことがなかったその瞳が私をじっと見つめていました。

言葉にならない感情が体中を駆け巡りました。
それは憎しみによく似た愛情であり、愛情によく似た憎しみでした。

私は反射的に立ち上がり、彼につかつかと近寄ると、その目を真っ直ぐに見つめました。
そうすると弱い電流のように男の感情が流れこんできます。
一瞬、無表情だった彼の瞳が、今にも泣き出しそうな表情をしたような気がしました。
それから彼はポケットに手を入れ、それを私に差し出しました。
ぼろぼの紙切れは、あの手紙でした。

私は手紙を受け取ると、彼の横をすり抜け、静かに教室を出ました。

廊下の窓からは真夏の空が見えていました。
なんだか頭の奥の方が熱くて仕方がありません。
その時、一陣の微風が私のスカートを揺らしました。
セーラ服の少女が足早に私の隣を通りすぎて行ったのです。
きっとものすごくみじめなことがあったのでしょう。彼女は口を一文字に結び、一生懸命悲しみを耐えていました。体をこわばらせて、顔を真っ赤にして、今にも溢れそうな涙をこらえて。
彼女の後ろ姿を見送った瞬間、濁流のような感情が溢れてきました。その激しさに耐えられなくなって、私は廊下にうずくまりました。
いつかの私の姿に、彼女のおかっぱ頭は酷似していました。
悲しみに立ち向かう彼女の姿は、記憶にあるそれよりもずっと、私の目には美しく勇敢に映りました。
「いとおしい」もしかするとそれはそう名付けるのに相応しい感情だったのかもしれません。

私は膝を抱きしめて、わんわんと声を上げて泣き出しました。
あとからあとから、吐き出すような感覚を伴いながら涙は止まることを知らずに流れ続け、教室を充満する川になり、それも溢れて涙は透明な海になりました。
海は生き物のように大きな波になり、思春期の怪物たちも、男も、私も、セーラ服の少女も、全てを飲み込んでいきました。視界は暗くなり、ざあざあと、涙の足音がいつまでも聞こえていました。

気がつくと真夏の空に入道雲がどこまでも広がっていました。私は静まり返った入江に立って、穏やかな海を見つめていました。どこか遠いその場所を、私はよく知っているような気がしました。
全てが沈んでしまった涙の海の底を、ペティちゃんがゆらゆらと楽しそうに泳いでいるのが見えました。彼女はこちらを振り返って優しく笑うと、もっともっと深くへと潜っていき、そのうち見えなくなってしまいました。
空っぽになった私だけが真夏の空の下に取り残されました。

いつの間にか眠ってしまったようです。目が覚めると、私は自分の部屋のベットの上にいました。
ずいぶん長い間眠っていたようです。夢の中で私は泣いていたのでしょうか。なんだか体がとても軽いことに気づきました。
穏やかな日差しが天窓から差し込んでいます。もしかすると私はずっと彼に会いたかったのかもしれない、と、唐突に思いました。それは一度思ってみると、「ああ、そうだったのだ」と、染み渡るように感じられるひらめきでした。私はずっと、私を苛み続けたあの質問を、彼に投げかけてみたかったのです。いや、そんなことはただの言い訳でしょう。本当は仲直りをしたかったのかもしれない。ああ、きっとそうです。10年分の全てを水に流して。もう一度あの頃のように。
ペティちゃんの姿がどこにも見当たりません。涙の海の底に、彼女は泳いで帰って行ったのでしょうか。

枕元で携帯電話が光り出しました。画面に表示されているのは彼の名前です。私は一呼吸ついてから電話に手を伸ばしました。
「もしもし」
少し低い彼の声が聞こえます。
懐かしい声。彼が何を話すために電話をかけてきたのか、私はなんとなく分かるような気がしました。
窓の外には夏の終わりが映し出されています。
「10年前のことなのだけれど」
彼が静かに話しはじめるのを、どこか夢のように私は聞いていました。