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何億年もかけてやっと巡り合えたはずのあの人の気持ちを踏みにじってしまったので、さっさとこの人生は終わりにしたいと3年前の私は思っていた。そうすればあの人の子供にでも運良く生まれ変われるかもしれないし、とか。

小学校に上がる直前に母が再婚し、わたしは大きな庭がある義父の実家に引っ越してきた。閉鎖的な雰囲気のある地元の学校に、トロくて極度に人見知りだった私は馴染めずに浮いていた。友達は一人もできなくて、隅っこの方で本を読んだり落書きしたりしていた。同級生のことは怖かった。義父は優しい人だった。しかし私が小学校高学年の時に突然仕事を辞めた。母は次々に生まれた四人の子供たちの育児と仕事に追われることになり、経済的にも精神的にも限界の場所に立たされることになった。家の中で唯一の頼りだった母はいつもヒステリーを起こしている。私は一人で朝ごはんを作って食べて登校し、学校では一言も口を聞かずにできるだけ目立たないように過ごし、家に帰って来てからは自室に引きこもって本を読んだ。

そういう生活をしていた14歳の秋、あの人と出会った。インターネットの画面の中で出会った彼は生徒会や部活や受験や恋愛にまっすぐに励んでいて、わたしはそれに本当に憧れていた。あの人の見ている風景を聞くのが一日の楽しみだった。

高校に上がる頃には私は理由の分からない絶望感に苛まれるようになっていた。ベットから起き上がれない日も多かった。幼い弟妹たちのが家の中を走り回るのを見ては発狂しそうになった。成績は下がり続け、クラスメイトからは腫れ物を触るような目で見られ、先生から君は邪魔者だから学校を辞めてほしいという旨を指導された。
どの糸がどんなふうに絡まって自分が苦しいのか全く分からなかった。ただ苦しくて苦しくて死んでしまいそうだった。
わたしはあの家を出て、寮がある高校に入り、自分で生活して行くことを決めた。なんとか変えたかった。状況も自分自身も。

寮での生活はめまぐるしかった。同じ釜の飯を食いながら、わたしは生まれて初めて友達を持つことができた。相変わらずわたしは不思議ちゃんキャラだったけれど、周りはそんな私を受け入れてくれた。本当に恵まれていたと思う。昼間は小学校の給食の世話をして働き、夜は学校に通った。忙しかったけれど、その隙間を縫ってあの人に公衆電話から電話した。

あの人に実際にはじめて会ったのは19歳の時だ。出会ってから五年が経っていた。不思議な感覚だった。始めて会う人なのによく知っている、緊張しているのに一方で親しみを感じている。あの人は全身黒ずくめで、折れそうに細い体をしていた。京都駅の大階段を登りながらあの人は私の身長の大きさにびっくりしていた。そのあとすぐに付き合いはじめた。一緒にいることが自然だった。一緒に居ないことの方が不自然だった。

遠距離恋愛だった。私たちはお互いの現在の状況や、生きてきた道のりや、そこから得た考えを毎晩電話で話し合った。それまでは自分について聞かれても適当に嘘を並べ立てていたので、自分の話しを誰かにするのなんてはじめてだった。言葉を尽くして誰かと話しをすること、それを受け入れてもらえることに私は感動していた。「わかるよ」その言葉の持つ熱さや甘さが身体を突き抜けていった感覚は今でも忘れられない。話しても話しても話し足りなかった。あの人は私が自分の体験や考えを言葉に変換するのをゆっくり待ってくれた。一つ一つ言葉にしながら、わたしは自分の生きてきた道のりをはじめて客観的に見ることができた。そのことを今でもあの人に深く感謝している。

話しながら沢山のことに気づいた。わたしは母のことを恨んでいるようだった。勝手に私をあの家に連れて行き、勝手に結婚し、勝手に子供を産み、私を一人ぼっちにした。彼女の自分勝手にぶんぶん振り回されてわたしは辛かったんだと。母が新しい家族にかまけているように見えた。わたしのことなどどうでもいいと思っているように思えた。家庭のみならず学校にも馴染めないことで自分を責めるようになっていた。

あの頃、わたしはあの人のことを父親のように思っていた。誰ともうまく通じ合えずに生きてきた私にとって、はじめて私を理解してくれたあの人は世界の全てだった。あの人と生きていきたい、そう願いながら、しかし私はあの人を裏切った。言葉にすることだけでは終われない、自分の欠陥があるような気がしていた。怖かった。私は通常の愛情を受けずに育ったんだ、だから通常通りに人を愛することなんてできないんだ、そんなことを思っていた。
自分が犯した罪の重さはつぐないながら理解することしかできない。どんなに苦しむことになるか、想像もつかなかった。

あの人を失って、わたしは色んなことをノートにぶちまけながら、あの人に話しをした続きを考えていた。あの人を裏切ってしまった根本的な原因を探りたくて、母のことや家族のことをよく書いた。
自分や自分の状況や母への恨みつらみを散々書き続けていたある日、ふと、そういえば母は毎晩欠かさず私たち家族に夜ご飯を作ってくれていたなあ、それってすごいことだったよなあと思い至った。母は五人の子供を育てながら自営業を営んでいた。想像を絶する苦労をあの頃の母はしていただろうと思う。
私はそんな母を思いやっては来なかった。というよりもどうしても思いやる気になれなかったのだ。母が働いているからといって、家の手伝いや弟妹の面倒を見る気にはなれなかった。それはあなたのやるべき仕事でしょうと私はあの時思っていた。
私は母に私の母だけで居て欲しいと思っていたんだってことにはじめて気づいた。私のためだけに家を掃除し、私のためにご飯を作り、私のためだけに話しかけて、私のためだけに生きて居て欲しかった。普通の家庭のお母さんで居て欲しかった。それは自分勝手な願いかもしれないが、知らない人ばかりの土地で誰ともうまく関係を結べなかった私にとって祈るように懇願だった。母はいつも誰かのものだった。幼い弟妹や、新しい父や、仕事先の人。たまに私の方を向いてくれたと思っても、私がどうしてなんにも協力しようとしないのか理解できない母はヒステリックだった。

誰も悪くなんかなかった、そう思った。さみしかったんだ、そうだわたしはさみしかった。たったそれだけのことを口にすることができなかった。それが苦しかった。そして苦しさやさみしさが自分の欠陥ではなかったんだ、とも。

母がへとへとに疲れて帰って来る、それでも必ずご飯を作り、自室に閉じこもっている私を無理矢理食卓につかせる。私たち家族七人は険悪な雰囲気の中で毎日ご飯を食べた。決まってなにかしらの口論になる。口火を切るのは母だ。もしくは私だ。私はその時間が大嫌いだった。無意味に続けられる儀式のように感じられた。
それでもごくたまに家族の団欒のようなものが、奇跡みたいに訪れる瞬間が確かにあった。
もしかするとあれは愛意外のなにものでもなかったのかもしれないなと思った。嫌な顔をしていても、それでも話し合いたい、関わりたい、顔を見ていたい、諦められない、あなたと楽しい時間を持つことを。そういう気持ちは愛意外のなにものでもないんじゃないか。

そうやって手に入れた新しい認識は強い希望だった。これからは自分は人を思いやれるだろうっていう希望、どんな状況に置かれていても、その時はうまくやれなかったとしても、強く人を愛することを諦めずに進めるという希望だった。そう思うと、今まで十何年感じてきた苦しさが嘘みたいに消えていった。

この三年間、私は誰ともきちんと繋がれないことが本当に辛かった。今の自分を持って、もう一度きちんと誰かと話したかった。言葉を尽くして関係を築きたかった。未来も過去もなくしてしまうくらいの激しさで誰かと親密になりたかった。それが与えられれば今度こそ自立した精神で大切にできると思っていた。人を大切にするってどういうことなんだろう、そんなことをずっと考えていた。「僕は酒なんかなくても君にならちゃんと話せる。」半年前にどこぞやでこの言葉を拾ったときは泣いてしまった。それだけのことが私には何年も許されなかった。

ばかみたいに細い細い糸を紡いでは断ち切りながら、わたしはずっとあなたを待っていたんだと思う。はじめまして。今度はまっすぐに、あなたを見つめることができると思うんだ。