まわる(1)

突然、夏がやってきたようだ。窓は大きく開け放たれていて、蝉の声が鳴り響いている。
私は読んでいた本に栞をはさんで、部屋の真ん中にごろんと大の字に寝転んだ。目を閉じて蝉時雨に耳をすませれば、まるで私が蝉になってしまったみたいだ。
たんたんたんと、誰かが階段を上がって来る音がする。おじいちゃんが工場から帰ってきたのかもしれない。
私はおじいちゃんと、風呂屋の二階を間借りして住んでいる。テレビと、タンスと、ちゃぶ台と、二人分の布団。五畳ほどの殺風景なこの部屋は、二人で暮らすにはあまりにも小さい。

私がこの家にやってきたのは去年の夏のことだった。
その年は最悪の年だった。
お父さんが働いていた会社が倒産して、そのうえ運悪く家が火事にあったのだ。私たち家族は悪魔に見初められてしまったとしか思えない。
突然無一文になり、途方に暮れたお父さんは私をおじいちゃんに預けて、お母さんと遠い街で住み込みの仕事をはじめることにした。
「すぐに迎えにくるからな」
お父さんは、そう言って私の頭に手を乗せた。
私はかしこい子供だから、にっこり笑って見せることができた。私はちゃんと知っていた。いつも私を叱りつけるあの恐いお父さんが、いまとっても悲しいこと。
もしも神様がいるなら、何度だって褒めて欲しいと思う。くちびるのはしっこがひくひくして今にも泣きそうだったけれど、それでも私は笑ったのだから。

隣の部屋から、チヨちゃんの甲高い声が聞こえている。チヨちゃんは隣の部屋に住んでいるスナックのホステスさんだ。今から出勤なのだろう。
チヨちゃんは妻子もちのお客さんと、お隣に二人で住んでいる。チヨちゃんの部屋とは襖を一枚隔ているだけなので、ふたりの会話はほとんど丸聞こえだ。たまに喧嘩もするけど、二人は概ね仲よくやっている。
チヨちゃんはは美人のちゃきちゃき者なので、お店ではえらく人気なのだそうだ。チヨちゃんの彼氏はそれが心配の種らしい。
チヨちゃんと彼氏はもうすぐ結婚する。彼の離婚がやっと成立するのだそうだ。
最近までおじいちゃんも私も、彼をただのヒモ男だと思っていたけれど、実のところ彼は街で一番大きな金物屋の旦那なのだそうだ。事情を隠してチヨちゃんの部屋に逃げ込み、離婚の機会を伺っていたのだ。だからチヨちゃんはいわゆる玉の輿というやつだ。
チヨちゃんの幸運を、私は心から祝福している。チヨちゃんは美しい。そして何よりも、風が吹き抜ける夏の海のように爽やかできっぷがいい。
チヨちゃんはたまに、私を駄菓子屋さんに連れて行ってくれる。私が慎み深くラムネを一個差し出すと、「なにいってんの、いっぱきこーとき、いっぱきこーとき」と両手いっぱいのラムネを買ってくれる。
チヨちゃんが大人の女性であるという点に置いて、私はチヨちゃんに憧れている。
真夜中、トイレに行こうと部屋を出ると、仕事帰りで華やいだ出で立ちのチヨちゃんに出会うことがある。「あら、ミーナ。眠れないのお?」
いつもと違う、色っぽい声を出すチヨちゃん。くるんと毛先が丸まっている。やがてチヨちゃんの部屋の襖の陰から大きくて太い手が伸びてきて、チヨちゃんの体は攫われていく。
そんなとき、私はなんだか焦ったくてたまらない気持ちになるのだ。
天井に向かって大きく手を伸ばしてみる。丸っこい指先が見える。どんどん伸びろ、私の指。どんどん伸びろ、私の手足。いつまでも鳴り止まない蝉時雨が、どこか遠い場所へと私を急き立てている。

私は、夏が好きだ。
おじいちゃんは自転車の荷台に私を乗せて、よく海に連れて行ってくれる。
おじいちゃんは家の中ではすててこ一丁なのに、外に出る時はスーツに着替える。そして必ずパナマ帽をかぶる。
びしっと紺のスーツ姿で、背筋をぴんと伸ばして、赤茶けて錆びた自転車をキコキコ運転するおじいちゃんを友達はからかうけど、私はちっとも恥ずかしいとは思わない。
「美奈、ちゃんと持っとけよ」そう言うおじいちゃんの背中を、私はしっかりとつかむ。

おじいちゃんはいわゆる「没落貴族」というやつだそうだ。
「わしが小さい頃はな、それはそれは大きなお屋敷に住んでいたんだぞ。」
いつかお父さんがそう言っていた。戦争のどさくさに紛れて事業を騙し取らても、おじいちゃんは文句のひとつも言わなかったそうだ。ただ黙って家族を連れて家を出て、長屋に引っ越してからは近くのお風呂屋さんで黙々と働きはじめた。
「あの人はね、生まれつき品のいい人なのよ。」
と、いうのはお母さんの言葉だ。
おじいちゃんとは正反対に、お父さんは負けず嫌いの性格になった。小さな頃に生活が激変したからだろう、お父さんはまるで戦士のようだった。ビジネスマンのお父さんはあまり家に帰ってこなくて寂しかったが、私はそんなお父さんを誇らしく思っていた。

私はおじいちゃんとご飯を食べるのが少し苦手だ。おじいちゃんは食事の仕方についてとてもうるさい。部屋の小さなちゃぶ台におじいちゃんと向かい合って座って、かしこまって夕食を食べる。かつておじいちゃんが暮らしていたお屋敷の晩餐はこんなふうに厳かな儀式のようだったのではないだろうか。なんとなく私はそう思っている。
お腹ぺこぺこで学校から帰って来て、さっそくご飯に飛びつこうものなら「美奈、お箸は三手で取りなさい」と、ぴしゃっとやられる。おじいちゃんは私の一挙手一投足を見逃さない。
はーい。できるだけ明るくそう言ってお箸を一度置き、私は改めて三手でお箸を取り直す。背筋を伸ばして、お椀を胸の位置に持ってくる。
おじいちゃんの刺すような視線をいつも感じて、正直なところ、食事の味はわからない。
でも、そうでなければ良いお家にお嫁に行けないとおじいちゃんが言うので、私は一生懸命おじいちゃんの言う通りにご飯を食べている。
大人になったらお金持ちと結婚して、その上私もばりばりと仕事をして、おじいちゃんとお父さんとお母さんに楽をさせてあげるのが私の夢だ。
心が大切なんて言う人が世の中にはいるけれど、私は思う。世の中はお金だ。お金さえあればこの寡黙で優雅なおじいちゃんはかつての暮らしを続けられた。私たち家族も離れ離れになることはなかった。
それにチヨちゃんは、私に両手いっぱいのラムネを買ってくれるではないか。

お父さんとお母さんがいなくなって、寂しくないと言えばそれは嘘になる。私にはおじいちゃんがいるし、チヨちゃんだっている。学校の同級生たちは、何かあればすぐにびーびー泣く。誰かが助けてくれると思っているのだろう、みんなまったくの甘ったれだ。私はけして泣かない、そう心に決めている。
それでもたまにお父さんが夢に出てきてぎゅうっと抱きしめられると、体から力が抜けて、なんだか自然と涙が出てしまう時がある。底抜けの安心感が胸の中を満たして、ああ何もかも夢だったんだ、お父さんもお母さんもどこにも行くわけがない、ああよかった、と思うのだ。
そういう夢を見た日の朝は、この世界が真っ暗やみに見えることがある。隣で眠るおじいちゃんの規則正しい寝息と、灰色の部屋が、私をゆっくりと現実に引き戻す。

あれは、私がおじいちゃんの部屋に来た次の日のことだ。おじいちゃんは私を海に連れて行ってくれた。あの日のことを私はずっと忘れないと思う。
海はすごい。砂浜に寝転んで波の音を聞いていると、私の体から世界が始まっているような気がしてくる。ぜんぶ、ぜんぶ、真っさらになったような気がしてくる。
側でおじいちゃんがブルーシートを広げて、お弁当の準備をしていた。お弁当にはきっと、大好物の卵焼きが入っているのだろう。いい匂いがここまでただよってくる。
澄み切った夏空を見つめていると、おじいちゃんと、お父さんと、お母さんと、チヨちゃんが、頭の中で手をつないでくるくるとまわり出す。風が体を吹き抜けていくのがわかった。
その時、私は稲妻に撃たれたように思った。
きっときっと、お金持ちになろう。お金持ちになって、もうこんなに悲しい思いを誰にもさせない。
湧き上がるようなその決意は体の隅々に染み渡り、ゆっくりと力が漲っていくのがわかった。
おじいちゃんが私の名前を呼んでいる。はーいと返事をして私は起き上がる。おじいちゃんが笑っているのが見える。
やがてそれは爆発しそうな焦燥感に変わり、走り出しそうなほど急速に私の体を支配してゆく。
そうだ、家に帰ったら勉強しよう。まだあいうえおだって読めないけれど、たくさん本を読もう。誰よりも美しく食事を取れるようになって、それからお茶もお花も、ああ、それから、みんなに私を気に入ってもらえるようにお話しだって上手にならなきゃいけない。
そうして、いつか私は全てを手に入れるんだ。私たちがかつて失ってしまった、全てを。
なんだか泣きそうだった。
真っ白な砂浜を舞台に、光が踊り狂っているのが見える。柔らかな頰に降り注ぐ透明な光の粒を、私はただいつまでも見つめていたのだった。