In A Notebook

夕暮れがいつの間にか終わっていた。まるで忘れ物みたいに、オレンジ色の雲が濃紺の空に浮かんでいる。
夜が始まろうとしていた。君と過ごす、たぶん最後の夜が。
ベットに腰掛けて、君は静かに空を見ていた。
年下の美しい男の子。私はずっと、この小さな横顔が愛おしくて仕方なかった。
「なにか飲み物を入れようか?」そう尋ねると、「いや、いい。それよりここにいて」と彼が静かに呟いた。

彼が突然、私に別れを告げてきたのは先週末のことだった。晴天の霹靂だった。あなたは末期ガンだと医者に告げられた患者のような衝撃だった。
確かに最近の私たちは少しぎくしゃくしていたかもしれない。
でもそんなこと大した問題ではないと思っていた。多少のすれ違いがあったとしてもまたすぐに、君はいつも通りの笑顔を見せてくれると信じていた。
電話の向こうの彼の声は、いつもより少し遠く聞こえた。
まだ取り返しがつくはずだ、何か方法があるはずだ。とりあえずきちんと話しをしようと説得し、食事の約束を取り付けることに私は成功した。

待ち合わせ場所にやってきた彼を見て、彼に会うのがずいぶん久しぶりだということに気づいた。髪が少し長くなり、少し大人っぽくなっていた。なんだか知らない男の人のように見えた。
食事の間中、いつものように彼は笑顔を絶やさなかった。しかし、私の問いかけをはぐらかすように友達のMの話しばかりしている。
彼の鈴の音のような綺麗な声を聞いているだけでなんだか泣き出しそうになってしまうので、私は仕方なく視線を泳がせた。彼の後ろの窓から雑居ビルの安っぽいネオンが見える。ネオンはまるで彼みたいだ。ぴかぴかと光っているのに、その背後には薄暗闇が広がっている。

うまくいっていた頃の私たちを思い出す。あの頃彼が笑顔の合間で、私に何かを打ち明けようとしていたのはなんとなく分かっていた。何度もそれを切り出そうとしては飲み込んでいたことも。
それをなんとなく受け流したのは、怖かったからかもしれない。いや、それ以前に、彼の屈託のない笑顔を見ているとなんにも問題はないんだと思えたんだ。
私は間違っていたのだろうか。私は知らぬ間に、彼のなにかを踏みにじっていたのだろうか。

話題はいつの間にか、彼が最近仕事で知り合ったというある女の話しに切り替わっていた。なんだか変わった女のようだ。趣味で小説を書いているらしい。根暗で気色が悪いやつだ、と私は思う。

彼がトイレに行っている間に、私は食事の会計を済ませてしまった。帰ってきた彼は「ありがとう」と小さく呟いた。
彼に会うのは、きっとこれが最後になるのだろう。
エレベーターに乗り込むと、雨の匂いに混じった彼の香りが私の涙腺を刺激する。冷酷な女だと思われていたのだろうか、彼は涙目になった私をまんまるな瞳で見つめている。たまらなくなって、私は彼を抱きしめる。彼は少し抵抗したが、すぐに大人しくなった。外に出て私がタクシーを止めると、彼は黙って一緒に乗り込んできた。

「朝起きた瞬間が一番悲しいのはどうしてだろう。ねえ、全ての記憶には色と形があると思わない?その手触りを思い出すと、僕はいつも叫び出したくなるんだ。」
私のベットに腰掛けて、窓の外に視線を向けたまま彼はそう言った。
彼が何について話しているのか、私はいつも、うまく理解できなかった。理解できないが、彼のそういう、わけのわからないところが好きだった。彼の言葉のリズムが、私の心を確かに揺り動かす瞬間があるのだ。全てを洗いざらい、話してしまいたいような気持ちになるのだ。でも私はそれが恥ずかしかった。なんだか恥ずかしくてたまらなくなって、私はいつも黙った。黙る私を見て悲しげになる彼を見る前に、私は彼を揶揄った。

薄暗い部屋にランプを灯すと、見慣れた彼の横顔が浮かび上がった。私は、はじめて彼に会った日のことを思い出していた。
雨の夜だった。彼はベージュのシャツを着ていた。煩い店内にはそぐわない、品のある佇まいの男の子。見かけによらず、彼はよく話す人だった。そのほとんどが難解な内容であまり理解できなかったけれど、彼の話す声のトーンや言葉のリズムが心地よかった。私は彼の発声に体を預けながら、相槌を打っていた。
「僕は、僕と同じ言葉を話す人を探しているんだよ」
夜明け前、雨上がりの路地裏で、彼は私にそう言った。明星が東の空に光っているのが見えた。

いつの間にか言葉は途切れ、彼は小さな音楽に合わせてぼんやりと揺れている。もうなにも話すことがない私は、静かに、できるだけ静かに、彼の隣に腰掛けた。彼を怖がらせることがないように、もうこれ以上彼を傷つけることがないように。
「君は僕のことなんて、少しも好きじゃないんだと思っていたよ。」
彼がこちらを見つめながら、彼はそう言って笑った。 
夜が始まろうとしている。君と過ごす、たぶん最後の夜が。