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私の願いは幼い頃からたった一つ、「誰かに理解されたい」それだけだった。理解を欲するあまり失語症のようになり誰とも上手く話ができなくなるほど、私はいつもいつも理解されたかった。
あの年の夏、私は東京を彷徨っていた。こんなにも、焦がれるように、自分が何を探しているのかは理解できなかった。しかし私は確かに何かを探していた。明確な形を持った何かを。
何人もの人と真昼間の喫茶店で向かい合った。
知らない人に会うのは億劫で仕方が無かった。
大切なのは効率だ。短時間でいかに相手の真実をえぐり出す質問をして、次回を設けるべき相手なのかどうかを見極めるの。私と同じようにこの大都会で迷子になってしまった友人にそうアドバイスを受けたことがある。
相手を目の前にして私が心の中で叫んでいたことはひとつだった。あなたは私の言葉が理解できる?私と同じ言葉でお話をしてくれる?
さんさんと降り注ぐ真昼の光も、喫茶店の喧騒も、自分と相手を徐々に見失わせるだけだった。私が何を話しているのか、誰ひとりとして理解しなかった。きみは少し変わった女の子だね?そう言って困ったように笑っていた。その笑顔を見ていると言葉が出てこなくなり私も困った。
しまいには私は話すことをやめてしまい、ただ相手の話しにタイミングよく笑顔で頷く機械のように自分を感じた。だから延々と話をしてくれる人が好きだった。沈黙はこわい。
終電車が嫌いだ、嫌でも自分がこの世界で一人ぼっちなのだという事実と目が合ってしまうから。家に帰ると恐ろしく虚しい気持ちが私をおそった。どんなに笑いあったって孤独と孤独は混ざり合わないのだ。

ここにあるのは一つのおとぎ話だ。
まだ言葉も話せないほどに幼い頃、私は不思議な女とふたりきりで暮らしていたことがある。彼女は言葉の魔法を使う。彼女が話し出せばどんな場所も宮殿のような光に包まれた場所に変わり、彼女が愛していると言えばそこには確かに純粋無垢な愛が出現し、私はそれを何度だって体験するのだ。彼女はいつも私だけを見ていた。私の体調を気遣い、私の心を気遣い、私の心身の成長を気遣ってくれた。私は安心して彼女の服の裾を引っ張る。彼女と私が暮らしていた家のベランダの眼前には海が広がっていた。海はいつも私たちの感情を受け止めて寄り添いながら歌う。彼女との暮らしには二人だけにしか理解できない幸福感に包まれていた。
幻想のように美しい光景が何度も何度も蘇っては消えていく。彼女が私のもとを去った日を今でも覚えている。音楽は鳴り止み、光は消え、そこには薄汚れた現実だけが残っていた。彼女は忽然といなくなり、私だけが灰色の景色の中に取り残された。
覚えている。下世話な人々が知ったように私について語り、哀れみ、蔑み、排除した。私は彼らに迎合しようとして失敗し、自の言葉を見失った。
彼女によく似た女が私の前に現れて、私の手を引っ張っていった。前へ、前へ。女は強引で、けして振り返らない。あなたにはどこが前なのかわかっているのか。私は彼女によく似たその女を心の底から憎もうとした。しかし憎しみは自分にはねかえり、私は女の中に、いや世界の全てにあの魔法の影を求めてやまなかった。気が狂うほどの恋しさだった。狂ってしまったほうが楽だと感じるほど寂しかった。歩くこともできず、傷だらけで引きずられている私の姿に女は気づかない。女はけして振り返らず、夢を見るような瞳でただ私を引きずっていく。私は失ってしまった光景を探すための旅に出る決意を日に日に固めることしかできなかった。

日溜まりから次の日溜まりへとジャンプする。長い長い跳躍の時間にこの世界の暗闇を思い知る。空の上には何があるの?空の上には君の全ての記憶が保管されているんだよ。求めているものは必ず与えられるが、求め続ける限り次々に失い続けていくしかない。
私は自分が何を探しているのか検討もつかなかった。それどころか、自分が何かを探し続けていることにすら気づかなかった。ただ頭が変になりそうな渇きと、瞬間的な幸福感と、何も見つけられなかったと理解した時の失望を何度も繰り返した。まるで目の見えない老人が光を求めて徘徊するように私には何もわからなかった。

夢の中の精神の部屋は、私が住んでいる現実の部屋より少しばかり大きく、コンクリ壁の無機質な部屋だった。家具は幼い頃から見知ったものが数点配列されており、どことなく懐かしさを感じる。暗く淡い色調の夢。私はこの部屋をよく知っているが、けして思い出したくはなかった。部屋の中で私は小柄で年いきの色の白い女性と話をしている。女性は私を引き取ることになっている。私は女性となんとか打ち解けたいと願っている。窓の外は霧雨だ。湿度が息苦しい。女性は私についてこう思っている。「彼女を引き取る以上、彼女を真っ当な人間として教育しなおすのが私の勤めだ。私のやり方には完璧に従ってもらわなければならない。しかし彼女はエキセントリックで私には理解しがたい」女性の心が私に伝わってきて、私は息苦しい。私はただ人間同士としてあなたと打ち解けたいだけなのに。そうしてふたりきり、まるでひとりの人間のように暮らしていきたいだけなのに。やがて女性は部屋を去り、大昔に恋人だった男が精神の部屋にやってくる。思い出したくもなかった青白い男の顔。幻想の中の私を愛し、現実の私を理解しなかった。狭い玄関で彼が私に笑いかけている。私は投げやりな気持ちで彼を迎え入れる。彼は小さなホールケーキを私に差し出す。君は今日が何の日か知っているか?今日は君の物語を聞きにきたんだ。上手く話せなっくたっていいから、話をして欲しい。君の話が聞きたい。ずっと聞きたかったんだ。ケーキの上には小さな小さなツリーが乗っている。てっぺんで少し傾いた、赤いリボンが滲み始める。