Lust

こんな嵐の夜には、春子のことをお話しましょう。

春子は私の学友の娘でした。
春子の母親は女手一つで春子を育て、春子が一五歳の時に急死しました。
一人娘の春子をたいそう愛し、可愛がっていたと聞いております。
表沙汰にはなりませんでした。しかし、どうやら自死だったのではないかという噂が実しやかに囁かれました。理由は誰にも分かりませんでした。
彼女の葬儀で、あの世に咲く暗い花のような佇まいの、セーラー服姿の春子を見ました。
母親の柩の横で頬を赤らめて涙をこらえる春子は、私の目になぜかとても扇情的にうつりました。

葬儀が終わり葬儀場をあとにしようとする私の目の前を、春子と四十絡みのずいぶんと背の高い、風貌の整った紳士が通り過ぎて行きました。
翻る紺色のスカートの裾は、少女の清らかさを表現しているように感じられました。
春子は私に気づくと、ぺこりと頭を下げて、それから紳士の腕をそっと組み直し彼を見上げました。
春子のしなやかな指先が美しい蔦のように紳士の腕にからまる様を、私は息を呑んで見つめていました。
紳士は春子をじっと見つめ返すと、彼女の手に反対の手を重ね、それから二人は静かに寄り添いながら質素な霊柩車の中へと消えて行きました。
苦しい恋をする男の瞳にのみ宿る湿り気が紳士の目の奥にはありました。
旧友が乗った車が式場を後にするのを私は呆然と眺めていました。
しかしあまりにも自然な一連の場面になにか解釈をつけるのも不謹慎に思われ、私は心の中で旧友に花を手向けるばかりなのでした。


旧友の葬儀以来、私は春子のことをすっかり忘れて生活をしておりました。
私は高校を卒業してすぐに上京し、上流階級の男性が集まるサロンの女給を生業としておりました。
私は大して美しい容貌ではありませんが、お客様は私のことを、この銀座のどんな女よりも気立てが良いと評して下さいます。
それは分かりません。 しかし私が、人よりも幾分面倒見が良く、優しいのは確かだと思います。
悲しい人を見ると一緒に泣きたくなり、苦しい人を見ると抱きしめて差し上げたくなってしまうのです。
なぜかは分かりません。物心ついた頃からずっとそうやって生きてきました。
良いことばかりではありません。こういう性分のせいでしなくてもいい苦労ばかり背負ってきたような気がします。
しかこの商売ではそういった私の性分が良い方向に生きてくれるようでした。
気品ある良いお客様方にも恵まれ、厳しい銀座の街で十数年必死で働いているうちに、私はすっかりこの街の女になっておりました。

忘れもしないその日は厳しい大雪でした。
伽藍堂のように静まり返った暗いお店の中で、若い女給とふたり、お客様を待つ時間は永遠のように感じられました。
突如ドアベルが鳴り、笑い出してしまいそうなほど厳かな声で、黒服がお客様の来店を告げました。
馴染みのお得意様が、すらりと背の高い紳士を連れられて、白いものを払いながら大雪から逃れるようにサロンに入って来られました。
私たちは本日はじめてのお客にホッとしながら、いらっしゃいまし、と愛想よく声をうねらせました。
お連れ様の外套をお預かりし、ロッカーにしまいながら紳士の顔をはじめて間近に見た瞬間、私は息を呑んでその場であっと声を上げそうになりました。
気品香るその紳士は間違いなく、あの葬儀の日に春子と霊柩車に消えていったあの人だったのです。

お得意様と紳士は奥のボックス席に腰掛けられました。
おふたりはもうすでに、ずいぶん出来上がっている様子でした。
「ああ、今日は美しい雪の日!君たちも大いに飲み給え!」
お得意様が愉快な調子で声を上げられます。
紳士も寡黙な気配を崩さぬまま、にこやかにこの夜を楽しんでいらっしゃる様子でした。

しかし私の脳裏に浮かんでは消えるのは、あの日の春子と紳士の眼差しが絡み合う様だけで、正直に申し上げて気が気ではありませんでした。
あれからどれくらいの年月がたったでしょう。春子はもう二十歳を超えているでしょうか。目の前の紳士は春子の一体誰なのでしょうか。
しばらくすると、若い女給とお得意様がふたりで何かを話し込みはじめました。
私が紳士のグラスにお酒を足そうとすると、紳士は私の耳元に顔を近づけこうおっしゃりました。
「私には一目見ただけでわかるよ。君には聖女の素養がある。君の客として、僕はこの店に通いつめることに決めた。」
ああ!なんだか今夜はお酒がよく回ってしまう!
私はぼんやりとそう思うことしかできませんでした。

あの夜の言葉どおり、彼は三日とあけずに私のサロンに通っていらっしゃるようになりました。
はじめはお得意様とおふたりで、そのうち一人でもお店に出入りするようになられました。
薄暗いカウンター席の端に腰掛けて静かにワインを傾けられるその様は、私の目にはため息が出るほど美しく映っていました。
初めのうちは戸惑いを隠せずにいましたが、いつのまにか春子のことを聞きそびれ、紳士の穏やかな気配に安堵し、私の心は日を追うごとにゆるんでゆきました。
彼の名刺には、大手の電気会社の役員という肩書きが踊っていました。
たまに部下達やお得意先の方々を大勢連れられて、私の売り上げに大いに貢献して下さるのでした。

そこに誰かが一線を引いたとして、その線の内側になんとか留まろうと私は必死で生きて参りました。
この銀座で私はたくさんの男の人に出会いましたが、私はその線の外側に出ることを堅く自分に禁じていました。
しかし彼には不思議な色香がありました。
暗い暗い淵の底へと彼となら潜って行ってもいいと、むしろそれが本望であると、ある種の女に思わせてしまう抗い難い引力を、彼は無自覚に放っていました。
彼がグラスに口づけるたびに、けして私を見つめない伏し目がちな瞳を見るたびに、強い渇望を止められなくなりそうでした。
私は彼の口から春子について何も聞きたくないという気持ちになっていました。
それは女という動物としての本能のようなものだったのでしょう。
数ヶ月後、私は彼と夜を共にしました。
どうしてもと願ったのは私の方でした。

それからというもの、私は来る日も来る日も、狂ったように彼の仕事部屋へと通いつめました。
それは苦しい日々でした。
幸福とは、胸のうちにわだかまるこの息苦しさのことだったのだと私ははじめて知りました。
私はいつの間にか、ありったけの愛情を彼の中に注ぎ込んでしまいたいと願うようになっていました。
例えばそれで私がからっぽになってしまってもそんなのまったくかまわない。理不尽なほど凶暴な愛おしさが私の胸の中に渦巻いていました。
いつも春子の影がぺったりと彼の内側に張り付いていることに私はすでに気づいておりました。たまに私の向こう側にある春子の姿を、懐かしそうに見つめていることも。

ある夜、彼は私に商売を持ちかけました。
その商売、「東海道沿いに、旅行者をもてなすための旅籠を」というのは表向きの大義名分。
大きな声では言えませんが、その実は長期滞在者向けの娼館を営んでみないか、というものでした。
私は声が出ないほどの衝撃を受けましたが、心はすでに決まっていました。
「出資はすべて私がするから、君に女将をしてほしい。
はじめて君を見た日に私は思ったんだよ。ああ、この女のおかげで夢が叶うってね。」

紳士は熱っぽい口調で私にこう語り始めました。

「私が今の地位と名声を得るまでの秘密の物語をお前に語ろう。誰でもない貴女にだから、私は語るのだよ。きっと、他人には話してくれるなよ。

あの頃の私の姿をお前は想像できるだろうか。
私は事業に失敗し、金もなく、家族にも逃げられ、自分がなぜ生きているのかまったく理解できなくなっていた。

年内に死のうと思っていたんだ。
有り金とほんの少しの着替えを持って、私はこの世の果てのある田舎町に逃げたのだ。
死に場所を探して数日、街中をほっつき歩いた。 そしてタバコ屋の隣に落ちていた漬物石の上で、力尽きた私の意識は途切れかけていたんだ。

死に神様だと思ったよ。セーラー服の少女が目の前に立って、私に手を差し出していた。やっと迎えに来てくれたのか、私はそうつぶやいた。そこでわけがわからなくなり、気持ちのいい白い光に包まれたんだ。

気がつくと、見知らぬ天井が真上にあった。
さきほどの少女と、その母親と思しき女が私の顔を覗き込んでいたよ。

わけも分からず私が体を起こすと、少女がじっとわたしを見つめたんだ。私も少女を見つめ返した。
不思議な目だった。その瞳は怖いくらいに透き通り、同時に、痛々しいほど攻撃的だった。

あの瞬間に沸き起こった感情を私は今でもうまく言葉にすることができない。
それは死にぞこなってしまったという安っぽい後悔ではなかった。
なぜだかわからない。しかし、今日まで味わってきた全ての受難は、今この瞬間のためにあったのだという確信だけがあったのだよ。
稲妻のようだった。あんなことが自分の人生に起こるなんて考えたこともなかった。

その日から彼女は、夜が来るたびに母親に秘密で私を二階の端の自室に呼ぶようになった。
私たちは彼女の小さなベットの上で、世界の扉を閉じるようにして抱き合った。

夜は時間という概念を失い、伸びたり縮んだりを繰り返しながら私達のまわりをくるくると回っていた。まるで星のようだと思った。
いつも暗闇の中を歩いていたような気がする。
私は彼女というたったひとつの光を頼りに、己の内面世界を旅してまわったんだ。
そこにはこの世の全てがあった。
阿鼻叫喚の地獄もあれば、花咲き乱れる桃源郷もあった。
鬼にも出会った、仏様にも出会った。
この世界ができた瞬間から今日までの無限の進化を体験した。
今までに出会った、全ての瞳を思い出した。
全ての感情の根源が沸点に達し、私は叫びだしそうだった。
諦念によく似た開放感だけがあった。

私は夢中で彼女におとぎ話を語った。
ある日は北の果ての孤独な民族の最後の日々について語り、またある日は、家族を皆殺しにされた少年が国の主に復讐を遂げるまでの葛藤について語った。
次から次へと、言葉が口をついて生まれていった。
それらは全て、彼女とのまどろみの中で体験した私の精神の彷徨についての物語だった。

彼女は食い入るような目でわたしを見つめて離さずに話を聞いていた。頷きさえしなかった。
彼女が私を愛していたのかは分からない。
しかしふたりで過ごす幾度もの短い夜の間は、全身全霊の愛情が私に傾けられているのがわかった。
それで十分だった。それ以上なにもいらなかった。

私は朝が来るたびに彼女にお金を支払った。それが自然なことだったんだ。夜の間に彼女が私に傾けている熱は、そういう類の情熱だったんだ。
限りなく恋に近い、しかし明らかに何か別の熱量。
君は笑うかもしれない。彼女のベットの中で、私は彼女を「おかあさん」と呼んだんだ。彼女も笑っていたよ。

持ち金がなくなったら、私は彼女の元から去らなければいけないと考えていた。
しかしそれよりも先に運命が私たちに終わりの時間を提示した。
彼女の母親が死んだのだ。母親が私に好意を寄せていることは理解していた。
しかし私にはどうしようもなかったのだ。私は彼女との時間のためだけにここにいなければならなかったのだから。

葬儀が終わって数週間後、私たちは別れた。
母親と私を同時に失った彼女が涙を見せることは遂になかった。
しかし、実際のところあの人はなにも失っていなかったのだよ。何も彼女のものにならないから、失いようがないんだ。

たまに想像するんだよ。
今もどこかで誰かのことを、身を焦がすように愛している春子の姿を。
あの頃のことを思い出すたびに私は何度も確信するんだ。
春子は生まれながらの娼婦だったのだよ。
彼女の神聖なベットの中で、私はこの世の懐かしさの根源をこの目で見たのだ。

あの街から帰ってきた私の目には、東京がまったく別の場所に見えたものだよ。 自分が違う人間に生まれ変わったように感じられた。
あれから私は己を忘れて働き、仕事を立て直し、新しい家庭を持った。
そして、今きみの前でこうしている。
全てが夢のようだ。」

語り終えると、紳士は安心したように眠りの国へと堕ちてゆきました。
安らかなその寝顔を眺めながら、私は涙が溢れて止まりませんでした。

それからしばらくして、私達の商売が軌道に乗った頃、紳士は家族とともにどこか遠い国へ行ってしまいました。
最後の逢瀬の日、紳士は始終静かに笑っていました。
悲しみと紳士への強い愛情が、静かな波のように押し寄せては消えて行きました。
どうかお元気で、どうかお幸せに。
心の底から、私はそう祈っていました。

春子がこの館へやってきたのはそれから数年ほどが過ぎたある暑い夏の日のことでした。
今でもあの日のことはよく覚えています。
白いワンピースから棒のような手足をのぞかせて、うつむき加減の顔はつば広帽にかくれ、唇だけがてらてらと光を反射していました。
その姿を一目見ただけで、春子がどういう女に成長したのかはっきり分かりました。
春子は私の館の玄関をくぐり「ごきげんよう」とにっこり笑いました。
いくつもの愛を失い、それでも人を愛することを諦めることができない女の顔がそこにはありました。
まぶしいほど輝くその笑顔の下の生の業火が苦しいほどに理解できましたので、とにかくお上がりなさいと静かに声をかけることしか私にはできませんでした。