ハッピーバースデイ

ずっと頑なに手を離せずにいたファントムに私が別れを告げたのは、あなたに出会う少し前のことでした。
彼は古くからの友人でした。私は彼のことを心から愛していました。
ファントムは私にいつも温かい幻想を見せてくれました。
彼が作り出す幻の中で、私は無条件に愛されて満たされていました。
私はその幻想が唯一無二の真実だと信じていました。
人生を捧げても何の後悔もないと思えるほど、幻は甘ったるく真実味がありました。

長い年月が流れてゆきました。
遠い昔に失ったものに焦がれ続けるその日々は、絶望の底の底には温かさが潜んでいるのだと錯覚させられるような、不思議と甘い日々でした。
私たちは遊び続けました。くるくると輪になって永遠に追いかけっこを終われない子供たちのように。
彼は私の寝床に忍び込み、何度も何度もおとぎ話しを聞かせてくれました。
世界で一番甘美な響きで語られる物語り、それはもしかしたら子供の頃に誰もが平等に与えられ、享受し、成長と共に奪い去られる種類の幻想と同質のものだったのかもしれません。

ある日、ひゅーひゅーと鳴る隙間風のようにしゃがれた声で、あいしているよと彼が言いました。もちろん同じ気持ちよ、と私は迷いなく返事をしましたが、ふと横を見ると、そこにはぼろぼろに擦り切れて変わり果てたファントムの姿がありました。いつの間にか時間が過ぎ去ってしまったのです。
私は立ち尽くし、呆然としました。

光り輝く安心の王国はどこにも見当たりませんでした。
ただ茫漠たる野原が目の前日広がっているのを私はこの目で確かに見ました。

そしてようやく、あんなにも追いかけずにはいられなかったものが幻影だったことに私は気づいたのです。

走り続けた日々は、幻影を真実だと思おうとする己への執着と化していました。それは心の中に悪魔を住まわせていることと同じことでした。
私は何日も悩み続け、ある日決意しました

最後の夜私は泣きました。彼は笑っていました。
そして彼が静かに頷いたので、私はその体にナイフを突き立てました。

雪深い冬の夜に鮮血が飛び散りました。彼は声を漏らしながらぶるぶる震えていましたが、やがて静かになりました。何度も名前を呼び、優しく撫でた彼の体がそこにぐったりと横たわっていました。

私は彼を庭に運び、桜の木の下に埋め、手を合わせました。
それから家の中で私はファントムの事を考えました。ずっとずっと考えていました。涙が枯れるまで何日も泣き、ほんとうに、何度も何度も繰り返し泣き、そうして私は少しづつ彼のことを思い出さなくなっていきました。

いつの間にか春がやって来ようとしていました。私はようやく外に出る気分になり、長く閉ざしていた玄関の扉を開けました。
その時に見た光景を私はいつまでも忘れないでしょう。
私の目にはなにもかもが真新しく、本当に美しく見えたのです。

駅までの道のりの中に、新鮮な風景をいくつも見つけました。それはいつもの見慣れた風景ではありませんでした。同じはずなのに、ずっと輝きに満ちていました。

人が幾度も生まれ変わりながら生を辿る生き物ならば、あの時の私は生まれたばかりの赤ん坊でした。
赤ん坊の私は大きな声で泣いていました。生を授かり突然放り出された世界の手触りのあまりの鮮やかさに、笑いたいのに泣いてしまうのです。
私はファントムに別れを告げた代わりに、幻影の打ち砕かれた真実の世界を見ることを許されたのでした。

人に会えば、今までちらりとも見えなかったその人の素晴らしさを発見して目眩がするような思いになり、はじめて恋に落ちたかのような高揚を感じました。
街を歩く見知らぬ人たちに突如堪えられないほどの愛情を覚えて、片っ端から抱きしめて回りたい衝動にかられましたが実行には移しませんでした。

そんな季節に私はあなたに出会いました。

私は新しく授かった目を見開きあなたを見つめました。鮮やかに音を受け取る鋭敏な耳であなたの声を聞きました。言葉にならない生まれたての言葉であなたに語りかけました。
そうするとあなたがあなただと理解できました。

聡明な思考回路で世界を解こうとする清らかな好奇心が見えました。
深い考察とともに人を思いやる真剣な眼差しがおどけた態度に隠れていることを見つけました。
途切れた優しさの尻尾を求めて泣き続けている幼いあなたが見えました。
そして、何度打ちひしがれても正しく背筋を伸ばすあなたの美しい立ち姿と、そうせざるを得なかったあなたの寂寞が見えました。

それは恋などではありませんでした。もっと強い感情、鋭い衝撃のような感動でした。
こんな風に形容することを許してもらえるのなら、私はついに同じ生き物に出会えたのです。
遥か遠い過去から定められていたのだと思いました。
それから夢中であなたとふたり、季節を渡ってここまで来ました。

ここにあるのは東京の夏です。街のあちこちに夏の因子が溶け込んでいます。
きっとその中にはあなたが過ごしてきた二十数回の夏も含まれているのでしょう。今年の夏がよりいっそう愛しく感じられるのはそういった理由が含まれているのかもしれません。
生まれた街の夕暮れがまぶたに焼き付いて離れないのはどうしてでしょうか。あの穏やかな海は幻だったのでしょうか。
繋がらない二人分の記憶の断片が頭の中でちかちかしています。

あなたにはじめて会った日、私は途方に暮れていました。 あまりにも美しく透き通ったあなたの目を、なんの用意もなくうっかり見つめてしまったから。
ハッピーバースデイ。
世界と出会ったあなたに心からのおめでとうを。

あの日、あの海で

夕暮れがはじまっていた。私たちは橋の途中で車を停め、喪服のジャケットを脱いでから車を降りた。骨壷を手のひらにのせて、深い深いエレベーターを君と二人で降りていく。そこは小さな島だった。海までの道を手を繋いで歩いた。下から橋を見上げると、緑の中の幾何学模様みたいに見えた。
森を抜けると急激に海が広がった。夕日が海に半分落ちて、この世のものとは思えない美しいオレンジ色が燃えていた。
誰も知らないけれど、瀬戸内の海は世界で一番綺麗な海なんだよ。在りし日の父がそう教えてくれたことがある。
骨壷をあけて、私はあの人と自分の手の中に骨をのせた。意外なほど軽いのに確かな質量を主張するかたまりを手のひらに感じる。わたしたちはうなずいて静かにそれを海に返す。白い粉は一瞬で海に同化する。
魚がもっと、ずっと遠くまで運んでくれるよ。
あの人がそう言う。
夕日が沈んでいく。丸く穏やかな島々が点々と浮かび、大きな船がゆっくりと海を渡っていく。私たちはその美しさにしばらく言葉を失ったのち、父と私たちを繋いでいた幽玄をあとにして車に戻った。

寝耳にキス

いつもの喧騒が嘘みたいに、放課後の教室はがらんとしていていた。白いカーテンが閉められていて室内は薄暗い。
私は、父と母と教室の真ん中で横並びになって無言で座っていた。校庭から野球部の掛け声に混ざって吹奏楽部のラッパの音が聞こえてくる。
コツコツと足音が大きくなり、アルミの扉が開いた。担任のSが慇懃たらしく礼をして入ってくる。父と母が起立して深々と頭を下げた。
Sは机を挟んで席に着くと、挨拶を早々に済ませて早速本題に入った。
「ここ一週間、彼女は学校に来ておりません。ご両親はご存知でしたか?」
「いいえ」
父が静かに答える。
「最初のうちは体調が悪いのだと思っておりましたが、何日経っても連絡がない。ご両親に連絡を取ってみると登校しているはずとのこと。一体どこで何をしていたのですか。」
「…神社の裏で本を読んでいました。」
私は答える。
「毎日ですか?」
「はい」
「どうして学校に来なかったのですか。」
「…いじめを受けているからです。」

私たちの間にしばらくの沈黙が降りてくる。


二学期の始業式の日のことだった。
夏休みが終わったばかりの教室はライトな再会に溢れていて賑やかだった。親友のKが、窓際の席に一人で座っているのを見つけたので、勢いよく近づいていって「おはよう」と声をかけた。Kは私に一瞥くれるとすぐ目を逸らし、隣の席に座っていたYに声をかけて話し出した。
もう一度声をかける。
「ねえ?おはよう?」
やはりなにも聞こえなかったかのように話し続けている。
「もう、なんのつもりなの」
Kの肩に笑いながら手を置いてみる。Kは私の手を振り払うとYに「行こう」と声をかけた。Yは気まずそうに私を見ながらKに手を引かれて教室を出て行った。ぐにゃりと床が柔らかくなるような感覚が足元にあった。軽い冗談であってほしいと思ったが、そうでないことがすぐに分かった。私はずっとそこに立ち尽くしていた。

その日を境にクラスメイトが私を見る目は徐々に変わっていった。クラスを取り仕切っている中心の女子達に、Kが私の噂を吹き込んでいるようだった。彼女たちの悪口を言っているやら、出会い系サイトで出会った男性と遊び回っているやら、援助交際を行っているやら、身に覚えのない話しに尾ひれが付きどこまでも広がってゆく。私がクラスメイトに話しかけると誰もが黙りこくるようになった。自分が透明人間になったような気がした。するりするりと皆が私のそばを通り抜けていく。うわさ話しは生き物なんだと思った。
それでも、はじめのうちはまだ良かった。そのうち、机上に卑猥な落書きが増えてゆき、お調子者の男子生徒が上ずった声で背後から私をあざ笑い、トイレの個室に入った際には上からバケツの水が降って来るようになった。
昼食の時間、私はベランダで一人で食事を取った。ガラス一枚で隔てられたその場所もけして安心できる場所ではなかった。クラスメイトたちの刺すような視線を感じる。笑い声に不安を煽られる。早々に食事を切り上げて私は図書室に逃げ込んだ。

ある朝私はいつものように家を出て、そのまま学校には行かずに近所の神社に向かった。他に行く場所は思いつかなかった。
冷たい雨が降っていた。私は木陰に自転車を止めると、境内の奥に入った。賽銭箱の近くの台に腰を下ろし、図書室で貸りた本を広げる。湿気を帯びた空気が肌に張り付いている。何時間でも何冊でも読んだ。世界と自分の間にぱっくり開いた淵へ文字がぽとぽと落ちていく。感覚器だけを残して、ほの暗い雨の中へとこのまま消えてしまいたかった。

それから一週間、行ってきますと家を出ては、ゆく当てなく公園で時間つぶしをするリストラサラリーマンのように神社に向かう毎日を繰り返した。
一週間目の昼過ぎに携帯電話が鳴った。画面には母の名前が表示されている。思ったよりもずっと見つからなかったなあと妙に冷静に思っていた。
受話器を耳に当てると金切り声が聞こえてきた。
「どこにいるの!」
そんなに大きな声を出さなくたって、私にはどこかへ逃げる勇気なんてなかったんだよ。
そう思うとなんだか力が抜けた。
自転車を押しながらとぼとぼ家路を辿っていると両親の車が向こうからやってきてクラクションが鳴った。
そして私は今、両親と担任のSと向かい合って放課後の教室にいる。

「いじめはあなたの被害妄想でしょう。」
面倒くさそうにSが口を開いた。
「確かにあなたは教室の中でも明らかに浮いた存在です。しかしそれは仕方のないことだと私は思います。あなたの成績は下がり続ける一方だ。このままでは留年決定です。他の子供たちがあなたに対してどう接すればいいのか戸惑うのは当然の結果でしょう。」
「この子がいじめられているというのは事実なのでしょうか?」母が懇願するような口調で言う。
「お母さん、彼女は周りの子供たちに馴染めずにいつも一人で黙りこんでいる。子供たちが腫れ物を触るように彼女に接するのはどうすればいいのか分からないからです。こういう言い方はどうかと思いますが、はっきり言わせて頂きます。彼女がこの学校にいるのは相応しくない。次の学期から夜間や通信の学校に編入するのが一番良い方法かと。」
Sはそう言うとファイルの中から通信制の高校のパンフレットを何冊か取り出し、机に広げはじめた。
「この高校でしたら、今ある単位のみで進級可能です。」
「今から頑張ればなんとかなるのではないでしょうか。必死で勉強させますから」
母が感情的になっている。父がそれをなだめながら、
「ありがとうございます。分かりました。一度家族で話し合ってみたいと思います。お返事はそれからでもよろしいでしょうか。」
と言った。
「分かりました、ではよろしくお願いします」
Sが静かに答えた。

帰りの車の中で母が口を開いた。
「最近のあなたはおかしいわよ。私と会っても目も合わせない、口も聞かずにすぐに部屋に上がってしまう、おまけに学校にも行っていなかったなんて。ねえ、なにがあったの、お母さんに分かるようにきちんと説明して。」
「私、明日から学校には行きたくない」
なにも言葉にならず、仕方なくそうつぶやいた。
「答えになっていない。そんなことは許さない。学校に行かないってことがどういうことか分かっているの。みんなと違う道を歩くってことなのよ、それがどんなに大変なことなのか、覚悟の上であなたは学校に行かないなんて言うの」
母が自分の言葉に徐々に興奮していくのが分かる。
「大体あなたはいつもそうやって自分のことばかり考えている。お母さんが今どんな気持ちか分かるの。どれだけ忙しい中、いきなり呼び出されてもこうやって時間を作って来たと思ってるの。クラスメイトがあなたを嫌うのも当然よ、私だってあなたがクラスにいたら嫌いになるわ、その性格を変えなければ、生きて行けないところにまであなたは追い込まれているのよ、分かっているの!」
「…お母さん。」
父が母の肩を抱いている。
母には私が見えないようだった。
ああ、せめて私に、ヤンキーになったり、暴走族に入ったり、街で出会った見知らぬ男の人とどこか遠くへ逃げられるくらいの、度胸を下さい、神様。
なんだか胸の奥がヒンヤリした。


次の日、学校に行かなければならない時間になっても私はリビングに下りなかった。大きな音を立てて自室のドアが開く。母がつかつかと近づいて来て、ベットから私を引きずり出そうとする。私は柱にしがみついて抵抗したが、母は「逃げるな、逃げるな」と怒鳴っていてなにも聞いていなかった。数時後、私は制服を着て学校にいた。
あれから私は毎日学校に登校している。成績は下がり続ける一方で、この間のテストでははじめて一桁の点数を取った。
私はゆっくりと目を閉じた。頭の中をぼんやりさせて振り子の音に集中する。表情筋が緩んでいくのが分かる。かちこちかちこち。かちこちかちこち。かちこちかちこち。かちこちかちこち。私は音になる。


部屋が暗くなっている。いつの間にか眠ってしまったようだった。
携帯電話のバイブ音が鳴り響いている。画面には恋人の名前がぴかぴかと表示されている。
ベットに横になったまま携帯を耳に当てた。制服のスカートが太ももまで捲くれ上がってくる。
「もしもし」
夢がつづいているようになんだか身体が怠い。
「寝ていた?ごめんね」
恋人の声が聞こえる。
「うん、だいじょうぶ。」
くぐもった声が出る。そういえばなにか嫌な夢を見ていたような気がするが思い出せない。
「調子よくなさそうだね。なにかあった?」
「ううん、なにも問題なく過ごしているよ。今日も学校の帰りにKとお茶をしてからカラオケに行ったんだ。遠くまで自転車をこいだからつかれちゃったみたい。帰ってからいつの間にか眠ってた。」
「そう、ならよかった」
拍子抜けするほど明るい声で恋人が言う。

恋人と付き合いだしたのは夏やすみの終わり頃だった。中学の同級生だった彼は私から一番遠い場所にいるような人だった。教室の端っこでノートに落書きをしている私と対照的に、彼はいつも人に囲まれていて、軽い冗談を飛ばしては先生やクラスメイトを笑わせたり、女の子に告白されたりしていた。たまに教室のすみっこにやってきて私にも話しかけてくれる。私は緊張してうまく彼の目を見て話すことができなかった。
別々の高校に入ってからは疎遠になっていたが、私のアドレスを人づてに聞いたのだとある日メールがあった。突然びっくりさせてごめん、の横に、「✩」マークがついていた。それからたまにメールのやり取りをするようになり、休みの日にふたりで会って話すようになり、いつの間にか恋人同士のようになっていた。
彼と居られるのはうれしかった。彼の見ている単純明快な世界が羨ましかった。子供のように健康的な顔で笑う彼にずっと憧れていた。

しかしなぜか私は、自分の身に起こっているをこと恋人に話すことができなかった。
トイレで頭から水をかけられた日も、学校に行かずに神社で一日を過ごした日も、私は、昼休みに友達と机を並べて食べたベーコン巻きの話しや、体育の時間のバレーボールで点数をいれて逆転しそうになったけれど結局負けた話しなどを恋人にしていた。次から次へとでまかせが口から滑らかにすべり出てきて、自分には小説家の才能でもあるのではなかろうかと思った。作り話しの中でなんだか楽しそうな生活をしている自分をいつの間にか好きになり始めていた。

恋人が小テストの時間にクラスメイトの笑いを誘ったエピソードを楽しそうに話し始めている。
私はなんだか途方もなく悲しくなってきたけれども笑った。そうすると彼も笑ってくれることを私は知っている。
きっと彼は電話の向こうで私が好きなあの笑顔を浮かべている。

「いつか私たちに何かがあってもしも別れてしまっても、私とずっと友達でいてくれる?」
私がそう言う。
「うん、いいよ。もちろんだよ。」
彼はそう言ってまた笑う。あの笑顔がクリーム色の天井に浮かぶ。


夏休みが終わる一週間前、Kと電車に乗って海に行った。二人でテトラポッドに腰掛けてスイカバーを食べた。あついね、あついね、と声をかけあって、海水浴を楽しんでいる人たちを遠くから眺めていた。真夏の強い光が反射して水面がアルミ泊のようにぴかぴかしていた。

Kがクラスにやってきたのは、入学式から少し経った六月のあるのこと日だった。担任に紹介されたKは今よりもずっとやせていて、なんだか心細そうだった。なにか重い病気で入院していたので入学式に間に合わなかったのだと担任は言った。「今日から彼女は君たちの仲間です。仲良くするように」そう言ってKを私の隣の席に案内した。Kはなんだか存在がうすっぺらく見えた。きっと世界が不安で怖くて仕方ないんだと思った。自分とさみしさの温度が似ているような気がした。私たちはすぐに仲良くなり、いつも一緒にいるようになった。

「地平線の向こうに見える島はなんだろう、四国かしら、九州かしら。 」
Kが海の向こうを見て遠い目をしている。
「大学生になったら、二人で旅行に行こうよ。アルバイトしてさ。」
私がそう言うとKは静かに笑った。
「ねえ、私と友達になってくれて本当にありがとう。」
そう言ってゆっくりと話しはじめる。いつもは早口のKなのに珍しい。言葉を選んでいるんだろう。
「はじめてあの教室に入った時、こんなに遅れを取っていてうまくやっていけるのかなって、怖くて仕方なかった。必死で馴染もうとしたんだ。あなたが居たからやってこられた。あなたが隣の席に居てくれて本当によかった。ありがとう。」
それからKは黙りこんでずっと海の奥を見ていた。

どうしてKが私と口をきかなくなったのか理解できなかった。なにもわからず、地獄色の毎日が過ぎて行く。あんなにも親切にしたのに。私はKを憎んでいる。
しかしそれとは関係なく、私はKのことが好きだなと思う。こんなことになる前と寸分違わず。
もしもKが、「今でまでのは全部冗談だよ。ごめんね」なんて軽く笑顔で口にしたとしたら、私はなんの躊躇もなくKとの関係を再開してしまうだろう。何事もなかったかのように、嬉しさでにっこりして。

夕暮れの自転車置き場でそんなことを考えていると、向こうの方からKが歩いて来る。妄想が現実に漏れ出して来たみたいだった。
何か話しかけようと思う。
夏休みに海に行った時からなにも変わらないように思えてくる。私はKに笑いかけ、そうすればKも笑ってくれるような気がする。きっとそうだ。

しかしKは私に気づくと俯き加減になり、黙って自転車を出して私の前を早足で通り過ぎる。ペダルに足をかけてスピードを出して下り坂を進んでいく。すぐに見えなくなってしまった。
私はなんだか急に笑い出したいような気持ちになって空を見上げる。
ずいぶんと日が短くなった。あの日、急に黙り込んでしまったKと二人で、どこまでも砂浜を歩いていたらいつの間にか夜になっていたんだっけ。
鮮やかなオレンジ色の空気がわたしと消えてしまったKの後ろ姿にゆっくり降り注いでは消えてゆく。

お母さんが言うように、私は私を変えなければいけないのかもしれない。私は私のままでは生きていけないのかもしれない。
苦しくても笑ったり、悲しくても嬉しそうにしたり、もしもそんなことでうまく回っていけるのなら、それはお安い御用だ。

6歳の頃にお母さんが再婚して私はこの街に引っ越してきた。
お母さんは新しいお父さんとの間に赤ちゃんを4人も作った。おまけに新しいお父さんが突然仕事をやめ、お母さんが働きはじめた。
忙しいお母さんの目には私のすがたなんて映らなくなってしまったようだった。お母さんは私のお母さんではなくなった。新しい家族や、仕事先の人たちのものになった。私はこの広い広い家の中で一人ぼっちになってしまったんだと思った。
それでも私はお母さんや新しい家族を困らせないように精一杯笑っていたのだ。

はじめてここに来たあの日からずっと、私はこの街がだいきらいだった。
物分りのいい大人の顔で自分の中のどろどろしたものを包み隠している人しかここにはいない。閉鎖的な空気に心が縮こまっていくようだった。
Kと、恋人と、お母さんの顔が頭の中に浮かんでは消える。
だれも私の話しを聞きたくなんかないのだ。だから私は黙り続ける。
なにかを話さなければならないのなら、口からでまかせを話し続ける。
悲しい私を見たくないのなら、作りものの笑顔で笑い続ける。

午後九時きっかりに恋人から電話がかかってくる。約束どおりだ。
「何してた?」
恋人の声が聞こえる。高い音が空気に消えていく綺麗な声。
「なにも、寝ていた。」
できるだけぶっきらぼうに答える。沈黙。

私は息をはーっと吸い込んでから、「あのね」と声を出した。

あのね、あなたに秘密にしていたことがあるの。実はね、私にはもう一人恋人がいるの。その人は近くの工事で働いている人。すごく好きなの。あなたと付き合うことにしたのは、その人とほんのちょっと上手くいかないことがあったからだったの。でも今はとってもうまくいっているし、優しくしてくれてる。そしたらね、つい先週にね、お腹にその人の子供がいることが分かったの。今三ヶ月なんだって。私は困るって言ったんだけど、その人がどうしてもって言うから、わたし、あかちゃん生むことにしたんだ。学校もやめるんだ。その人と家族を作るんだ。ごめんね、だまっていて。そういうことだからもう連絡してこないで、ごめんね、ばいばい。

一気に話した。途中から涙が流れてきたので、用意していた嘘八百によりリアリティが出てよかったと思った。恋人は電話の向こうで絶句している。返事が返ってくるのを待たずに携帯の電源を落とした。

私はなにをどう考えればいいのか分からなくなって、ベットにあおむけになって天井を見上げた。
なんだかとても胸がくるしい。
恋人との姿がクリーム色の天井に映しだされている。あの笑顔で笑っている。
口元が勝手に震えはじめて、私は吐くみたいにわんわん泣いた。


目をさました瞬間、否応なしに世界と目が合ってしまう。カーテンのすきまから弱々しい光が漏れている。いつの間にか朝になっていたようだ。また一日が始まろうとしている。
私はのろのろとベットを抜け出し、暗い階段を降りて、リビングの扉を開けた。
すると、テーブルにお母さんが腰掛けているのが見えた。

カーテンから差し込む灰色の光が逆光のようになってお母さんの姿がよく見えない。
「おはよう」
お母さんが静かに言う。
「話があるの。ちょっとここにすわりなさい。」
私は身構えながらお母さんの向かいの席に腰をかけてお母さんの方をしずしずと見る。

お母さんはひと呼吸おいてから、
「もう学校には行かなくていいよ。」
と言った。
お母さんが真っ直ぐにこっちを見ている。視線が私を貫通しそうだ。

「ずっと考えていたの。あなたは相変わらずお母さんを無視している。最初は腹がたっていたけど、そのうち、無視するほどつらいことがあるんだと思った。」
「うん。」
「お母さんだってあなたに色んなことを理解してほしいけれど、それはあなたも同じでしょう。これから時間をかけてゆっくり話し合いましょう。どう身を振っていくのかもしばらく考えてみるといい。ちょっと道を逸れたからって何も問題はないわ。選んだことを正解にしていくことができれば、それでいいのよ。」

私はお母さんの顔を見つめる。
いつの間にか厳かな母親の顔をしている。
いつもヒステリックに怒り続けるお母さん。マシンガンを発射するみたいに痛烈な言葉を並べ立てるお母さん。私はそういうお母さんしか知らなかった。
お母さんと向かい合って話しをするのは一体何年ぶりなんだろう、いや、もしかしたらこれがはじめてなのかもしれない。

「信じてもらえないかもしれないけど、お母さんはあなたの味方だ。」

お母さんが私をじっと見てそう言った。私は言葉を失った。窓の外の光が徐々に強くなっていくのが分かった。今日もまた一日が始まっていく。


それからしばらくして退学届を出した。ばかみたいな話しだけれど、学校に向かう車の中で、この制服を着るのが今日で最後だということにはじめて気付いた時の気持ちのことだけを覚えている。それは驚きのような、かなしさのような、よろこびのような、なんだか複雑な気持ちだった。あとはおぼろげだ。生徒指導室の壁の色も、学年主任や担任の顔も、お母さんの服装も、ぜんぶぜんぶ、わすれてしまった。

私はそれからしばらくのあいだ主婦になった。忙しいお母さんの言いつけを守り、掃除洗濯料理に子守り、なんでもこなした。昼ドラも見た。真っ昼間から昼寝もした。部屋をぴかぴかにして、美味しいものを用意して、家族が帰ってくるのを待った。得意料理はカレーだった。時間だけがたくさんあった。

年が変わる頃、春が来たらこの街を出ることに決めた。私は変わらなければいけないのだった。まったく新しい場所で、新しい私に。
それからは別れの日々だった。あんなにも嫌いだったふるさとの美しいところを、不思議と毎日発見した。お母さんと旅行にも行った。兄弟ともよく遊ぶようになった。お父さんは新しい生活に必要なものを心を込めて揃えてくれた。すべての風景がなんだか叫びたくなるほど愛おしかった。
なぜだかわからないけれど私はKに会いたくてたまらなかった。

1月11日、その日は私の誕生日だった。携帯から懐かしい着信メロディが流れる。
Kからのメールだった。ずっと連絡は途絶えていた。おそるおそる画面を開く。

青い画像が表示されている。
文字はなにもない。
それはふたりで見たあの夏の日の海だった。
あの日とかわらずに強い日差しを照り返して光る水面が写しだされている。
手前の砂浜には私とKの影がくっきりとうつっている。

私は今までのできごとがなんだか長い長い冗談のように思えて、天井を見上げたのだった。

長い時間

「きみ、いま泣きそうな顔をしているよ」そう言われて拍子抜けした。そんなわけないじゃないの、どちらかというと笑いたい気持ち、そう思っていたのに、その瞬間、口元が震え出して涙が出てきた。さっきから頭の中が熱くて仕方なかった理由が分かった。
わたしは目の前にいる相手を通して過去と出会い続けているんだと思った。これはいつか終わるの、真っさらな瞳であなたのことを見つめられる日が来るの。確かにこれはわたしがわたしに向き合うべき問題なんだと思う。

物語りを書いていた。あなたは冷静な文体で、結局のところ誰にも出会えなかったというお話しばかり書くんだねとあの人は言った。そうなのかもしれない。私は今まで色んな人と関わってきたけれど、目の前にいる相手と向きあった事なんか本当はたったの一度もなかったのだと思う。だから再会を願ってしまうのかもしれない。例えばそれが物語りの中でのみ為されるのだとしても。

きちんと話すことができなければ取り返しがつかないほどに誰かを傷つけてしまうという局面においてでさえ、私はなにも言葉にすることができなかった。流れていく時間をばかみたいにただただ見つめては、困った顔で目の前の人を見ていた。あなたの目にわたしがどんな風に写っているのかは死にたくなるほどよくわかった。
言葉のない世界で何年も考え続けて、やっと掴んだ僅かな言葉を連ねて、出せない手紙を何枚も書いた。とっくの昔に手遅れになった言葉たちをそれでも紡ぎ続けることしかできなかった。

涙はあの頃の私をつたってほんの少し流れていった。

伝わらなくたって伝え続けることが愛することなんだと、あの日一人きりで立ち上がろうとした私は結論づけた。

わたしは言葉にならない声でいつも話し続けていた。はじめてあなたに触れた日の喜びや、夏の夜の取り留めのない空気の色や、愛に関する言葉のない思索について、上手く伝えられない自分を不甲斐なく思いながらそれでも話し続けていたんだと思った。

ずっと考えてきたことについてでさえ上手く言葉にできない私を、私はいつか許すことができるのかな。





オートフィクション

はじめて彼女に会ったのは大学の入学式でのことだった。視線が彼女を追いかけていくのを止めることができなかった。斜めに歪んだ針金のような体、襟足を刈り込んだショートカットから伸びる首、化粧っけのない白い顔。女子の出席番号に並んでいるにもかかわらず、彼女はどう見ても少年だった。式後のオリエンテーションで自己紹介をした彼女が自分のことを「ぼく」と呼んでいるのを聞いた。

学生生活がはじまりみんなが群れを組んでいく中、彼女はひとり先生の目の前の席を陣取って熱心に授業を聞き、休み時間が来るとどこかへ消えてしまった。
私はそんな彼女のことが気になって仕方がなかった。

ある日の放課後、クラスの女子数人で飲みに行こうということになった。誰かが彼女にも声をかけた。新歓の時に先輩がレクチャーしてくれた、居酒屋、カラオケ、ラーメンの定番コースを辿りながら(田舎の大学なのでそれしかない)、わたしたちはよく話し、よく笑い、夜が深まる頃にはかなり打ち解けていて、なんとなく帰り難くなった友人たちがわたしのアパートに来ることになった。その中に彼女も混じっていた。

盛り上がった話しに一段階がつき、夜が更けていく。ひとりまたひとりと寝息をたてはじめ、いつの間にか起きているのはお酒が飲めない私と彼女だけになった。取り残された私たちは唯一空席だったベットの上に並び、壁にもたれて座った。
彼女にはお見通しだったのかもしれない。
「僕がどうしてこうなのか、君は不思議に思っているだと思うんだけど」と、静かに話しはじめた。

体の性別と、認識している自分の性別が一致していないと彼女が気づいたのは物心がついた頃だったそうだ。お母さんが買ってきた真っ赤なスカートに激しい違和感を覚えたことが彼女の最初の記憶だった。彼女の一人称が「ぼく」なのも、少年のような口ぶりで話すのも、単純に彼女の心が男性だからだった。男装趣味じゃなかったんだ、そう思った。
マイノリティである彼女の物語りへの驚きはなかった。それよりもわたしが心を揺さぶられたのは「男性でも女性でもないわたし」という曖昧な性別を背負っている彼女が、その身を切るような思いとどうやって向き合ってきたのかということだった。
夜明け前、寝ぼけ眼の友人たちが帰って行くのを見送ってから、わたしたちは過去のことや友人のこと、授業のこと、19歳の目線から見えていた世界について何時間も話した。彼女はひとつひとつの言葉を肯定するようにゆっくり話す。自分と良く似た言葉を使う人だと思った。
気づけば薄暗かった部屋が灰色の輪郭を帯びていた。不意に彼女の顔が近づいてくる。興味の赴くまま、わたしは目を閉じた。彼女の手が私のほっぺたをさわる。つめたい。彼女のくちびるはうすっぺらくて、端っこがきゅっと上がっていて、ひんやりしていた。こうやって話しをするまで、君になんの興味もなかった、だって君、頭からっぽそうなんだもん。額をくっつけたまま彼女が笑った。笑うと意地悪そうになる彼女の顔の凹凸が目の前にあった。女性でも男性でもない彼女は彼女いがいの誰でもなかった。そんなふうに誰かを認識しするのはあの瞬間が始めてのことだったように思う。
その日、彼女は帰らなかった。夕方すぎに起き出してスーパーへ行き、彼女が作ったカレーを食べ、手を繋いで映画をみてからまた一緒に眠った。朝方に目が覚めると彼女のかわりに手紙が残されていた。その日から永遠に繋がることができないわたしたちの関係がはじまった。

関係の仕掛けを明確に知るのは何年も後なのに、はじめて彼女を見た瞬間に何かを理解したような気持ちになった。あんなにも近づいたのに遠くなっていくことがわたしには不思議でならないかった。

最初に彼女と話した日から、わたしたちは同じような毎日を繰り返していた。同じ部屋から登校し、同じ部屋に帰ることがいつの間にか習慣になっていた。春から夏へと急速に季節が変わっていった。
彼女と過ごす時間は夢のように楽しかった。休みの日はふたりでどこへでもでかけた。映画に買い物、神社仏閣、南に下りて海。彼女がなにか気の利いた冗談を言い、わたしはそれを笑った。彼女と一緒に見る世界はなんだか完璧に見えた。わたしの言葉は彼女にしか通じないんだと思いはじめていた。
彼女の名前を呼ぶ音の微妙な響きでわたしの心の中が分かってしまうのかと思うほど、彼女の前にいるわたしは背骨や心臓まで透けて見える軟体動物みたいだった。わたしは何もかも見抜かれていることに安心して言葉を並べ立てた。返ってくる言葉はいつもわたしを楽にした。それが彼女のよく訓練された得意技のひとつだということが分かる頃には、彼女とわたしの関係は翳り始めていた。

彼女がいる生活に慣れきった夏の初めのある夜、なにかの会話の流れで彼女が自分のお母さんについて話し始めた。わたしたちはあんなにも沢山のことを語り合っていたのに、彼女がお母さんについて言葉にするのははじめてだった。わたしは彼女の言葉を一言も聞き逃さないように耳を傾けた。
彼女の実母は彼女が幼い頃に亡くなっていて、実母の妹にあたる人が彼女を育てることになった。彼女は叔母を、「お母さん」と呼び、二人で暮らしていた。お母さんは看護師をしながら彼女を育てていた。女手一つで働くお母さんのために彼女は一生懸命料理を作り、掃除洗濯をこなした。お母さんは孤独な人で、精神的に脆いところがあった。頻繁に不安定な気持ちになってはそれを彼女にぶつけた。彼女はそんなお母さんを宥め、話しに耳を傾けて、適切な言葉を用意し、お母さんの気持ちが楽になるように務めた。やがてお母さんは、あなたが居なければやっていけないよ、というような言葉を口にするようになった。
わたしは彼女の話しに相槌をうち続ける。
時が経つにつれてお母さんの彼女への依存は顕著になった。彼女に無理な我儘を言い、彼女の行動を拘束するようになったが、彼女はそれを必要とされているということだと理解し、快く従った。中学校に上がる頃、彼女はお母さんに重大な秘密を打ち明けた。それをきっかけに彼女とお母さんの関係は急変した。と、いうよりもそれまでにもそうだったものが表面に溢れ出てきてしまった。
二人の間にあったものは言葉では言い表せない性質のもので、彼女がにはじめて恋人ができた時、あまりにもその関係がお母さんとの間にあるものと似ていることに気づいて愕然とした。同時にお母さんに対する猛烈な感情がわいてきた。
彼女は遠くの大学に進学を決め、逃れるように実家を離れることにした。
「僕は僕が居なければ死んでしまうほどに誰かに必要とされて居なければ、自分なんて存在する意味がないと思っているんだ」
そう言ってうつむく彼女にかける言葉が見つからなかった。呪いだと思った。遠く離れた彼女を今でも縛り続ける強いのろい。
はじめて彼女の精神構造に触れた気がした。年齢のわりに不自然すぎる包容力や、色っぽさの理由が悲しくなるくらいに理解できた。
時間が目の前を浮遊して行く。わたしは彼女の家で彼女の帰りを待っていた時のことを思い出していた。早く顔を見たい気持ちとなんだかよくわからない不安な気持ちがとが入り混じって、誰かを待つ時間はこんなにも覚束ない不安定なものなのだと思った。彼女の部屋にあった本を読みながら、本当のところここはどこなんだろうと思っていた。よく知っている場所のはずなのにまったく知らない場所に迷い込んだような、部屋はまったく他人行儀な顔をしていた。チャイムが鳴りドアが開き彼女の顔が見えると、途端にわたしは安心して悪い妄想を反省した。
真実はどこにあったのだろう。彼女のことなんか、何一つ知ってはいなかったのだという事実を突きつけられていた。


わたしたちはそれから何回も話したが、話し合って解決できる類いの問題ではないことをお互いが了承していた。空虚な話し合いだった。わたしは彼女がわたしに何を求めていたのかをはっきりと理解してしまった。彼女もきっとそうだっただろう。何もかもが変わってしまったように感じられた。それなのに何もなかったような顔をして一緒にいるのには、私たちは多分若すぎた。かけられた呪いを解かなければならない、しかしその方法がわからない。それでも流れるように過ぎて行く日々は嘘みたいに楽しくて、向き合うことも投げ出すこともできず私たちは毎日静かに傷つき続けた。


夏がピークを迎える頃、わたしは一人で旅行に行くことにした。彼女から距離を置いて考えをまとめたかった。彼女が送るというのでふたりで駅に向かうバスに乗り込んだ。まるで一緒に旅に出るみたいだといつもはクールな彼女がはしゃぐ。鼻歌を口ずさみながら大階段を散歩し、喫茶店でココアを飲んで、改札まで手を繋いで歩いた。彼女が背後でぶんぶんと大きく手を振っているのが分かったが、振り返らずにゼロ番線のホームへと逃げるように急いだ。電車に乗り込むと泥のような眠気が襲ってきた。夢は見なかった。六時間後に海辺の街に着くころ、意識は朦朧として、頭の中の彼女はセピア色になって静止していた。喪失感と開放感が交互にわたしを襲い、いっそのこと殺してくれた方が楽だと思った。
わたしはそれから数日の間、本を読んでは物語りを彼女に重ね、意味のない言葉の羅列をノートに書きなぐることだけに専念していた。彼女にメールを出せば最初の数日はぽつりぽつりと返信があったが、そのうち途絶えた。
ある時、たまらなくなってわたしは彼女に電話をかけた。はい、受話器から彼女の声が小さく聞こえる。呂律がまわらないあやふやな調子でなにかを話しているがよく聞き取れない。なにもわからないまま電話が切れた。急に心配になって、わたしは日程を変更してすぐに帰ることにした。帰りの電車の中で猛烈に腹が立ってきてわたしはぽろぽろ泣いた。やり場のない怒りをどうしようもできずに窓の外を見ていた。電車の窓を流れる景色がすきだ。汲み取るべきものは何ひとつないのに、永遠に映像を喚起させてくれる。次々に浮んでくるのは彼女の姿だった。悲しそうな彼女、頭を垂れて、伏目のまつげを揺らして、その様でわたしになにかを訴えている、白い彼女の顔。自分がなにを怒っているのか皆目見当つかなかった。もしかしたら自分自身へのそれなのかもしれなかった。

それからしばらくして、あっけなく終わりがやってきた。

突然彼女に恋人ができた。
その人はわたしが彼女に出来なかったことをあっさりやってのけたのだと思った。
文化祭のテントの中で、彼女のそばに居たその人を見たことがある。彼女と何歳も年が離れているその女の人は、気の強そうな目でわたしの方をじっと見て、彼女になにか耳打ちしていた。
それからわたしたちは同じ教室に居ても連絡事項以上の会話を交わさなくなったが、卒業式の当日、一度だけ彼女が部屋に来た。
ダンボールの山の中で、床に小さく座っている彼女の姿はどんな他人よりも遠かった。
なにを言葉にすればいいのかわからなかった。言葉にするべきことなんてなにひとつなかった。今居る場所が彼女と過ごしたあの部屋だなんて信じられなかった。
わたしたちの時間はもうとっくの昔に終わっていた。
それが彼女に会った最後だった。あれから六年、今でも彼女と彼女の恋人はあの町の近くで一緒に暮らしているそうだ。


盛夏に向けて空気が高揚していく季節には思い出す。あんなにも近づいたあなたのこと。とつぜん強く繋がる出会いが何度かやってきてわたしの本心を覆い隠して行く。シンプルな言葉を忘れてわたしたちの糸は複雑に絡まってしまった、それを丁寧に解いてみたかった。気持ちや意思とは関係なく終わりはやってくるけど、待っているものはなんらかの形で必ず帰ってくるのだとあなたは言った。何年かすれば気づくだろうか、時間を超えてあの頃のあなたに出会えるだろうか。その時ははじめましてを言うのであなたはあの頃の真っさらな姿で、はじめて出会ったあの場所で。

春菊のおでん

はたちの頃に仲良くしていた友人のお姉さんは今にも消えてしまいそうな美人だった。
折れそうに細い身体の上で白い鎖骨が透き通っていた。こぼれそうに大きな目をしていた。ロングヘアーがふわりふわりと小さな頭で揺れてお姉さんをより儚くて綺麗に見せていた。
彼らは二人きりの姉弟だったので、お姉さんは私のことを本当の妹のようだと言って可愛がってくれた。
わたしよりもよっつ歳上のお姉さんは、家から車で一時間ほどの街で一人暮らしをしていて週末に帰ってくる。
友人はお姉さんのことがあまり好きではないのだと言っていた。
厳しい両親の言うことをよく守り優等生として育ったお姉さんは、高校生のある日とつぜん壊れたように恋に落ちた。相手は美術の先生だったそうだ。それは道ならぬ恋つまり不倫で、お姉さんは心を患って精神科に入院、学校を中退、先生の奥さんが泣きながら家に押しかけてくる、そういうことがきっかけで家庭が壊れかけていた時期があるのだと友人から聞いたことがある。
あいつのことは今でもよく分からない。でもたまに君に似ているところがあるような気がすることがある。
そんなことを言っていた。
お姉さんはけして自分の部屋に他人を入れなかった。口数は少なく、ふわりふわりと静かに話し、自分のことは語らなかった。
お姉さんにはなんだか現実感がなかった。確かにそこに居たはずなのに、髪に隠れた横顔と、白い腕で揺れていた金色のチェーンしか思い出せなくなるような。
あの頃の私にはそれが手の届かない場所にある美しさに見えた。わたしはお姉さんに憧れて髪を伸ばして、同じ香水をつけた。
お姉さんのことが好きだった。
ある日3人で居酒屋に入った。お姉さんは鈴の鳴る声で春菊のおでんを、と店員に頼んだ。なんでもないような話しをしていた。本当に話したいことはなにひとつ言葉にできずに時間だけが過ぎた。二人になってから友人にお姉さんの話しをしつこくせがんだが、友人はお姉さんのことをほとんどなにも知らなかった。
あの夜から数年が経った。ひらがなの柔らかな響きで彼女の名前を思い出すことが今でもたまにある。どうしているんだろうと思う。
あの頃の私は彼女に踏み込んでいく勇気なんてこれっぽっちもなかったのに、お姉さんはさみしかったんじゃないかとほとんど確信のように思う。本当は待っていたんじゃないか、なにもかも話してみようかしらという考えがちらっと頭を過ることがあったんじゃないか、自分の存在を現実として誰かに掴んで欲しかったんじゃないか。あんなにも排他的な美しさを放ちながら、裏腹な願いがあったんじゃないか。
そんなことを自分勝手に思ってみるのは、それが単純に私の願いだからなのだろうけれど。
友人との交流がなくなってしまってからお姉さんに手紙を書いたことがある。手元に届いたのかどうかはわからない。返事はなかった。
もう二度と会えないだろう彼女は24歳の美しい姿のまま私の中で永遠に揺れ続けるのかしら。たまにそれに気付いては、お久しぶりです、お元気でしたかって

2011

『時間の感覚がほとんど狂っている

何年も前のことを昨日のことのように感じる

脳みそが空気の色まで勝手に再生する

大きなことから小さなことまで覚えている

死ぬほど悲しいことがあった

でも思い出すのはほとんど楽しいことばかりだからそれはそれで狂ってる

記憶なんて曖昧であてにならないから、そこから考えを広げるのは断固拒否したい

なのに言葉が溢れて止まらない

言葉には色がある

わたしの場合はそれは赤

暗闇の匂いがする狂気の色

それでもあの日から疑問にはひとつひとつ答えを見つけてきた

見つけた答えには従ってきた

現実に戻って来るのも上手になった

わたしはちゃんと前向きに生きてる

自分を責めてなんかない

ただ写真の中で笑う女に吐き気がするだけ

お前は思う存分苦しめばいい

窓の外に見える景色が真っ赤に燃えていて気持ち悪い

わたしはこれからもっと残酷なものをたくさん見るだろう

そしてそれを受け入れるだろう

でも絶望したりはしない

どうすればうまく生きていけるのかをずっと考えてる

さみしさの淵に立って誰かを傷つけたりはもうしない、ぜったい』